9月30日-2 ダイブ
「ダイブ……」
先生が放った謎の単語を、そっくりそのまま口にした。
先生は本棚から一冊の本を取り出し、私に差し出した。
「勧めはしない。だが止めもしない。自分で決めろ」
渡されたのは『世界の禁忌実験』という本だった。
分厚く、荘厳なハードカバーに覆われている。
めくってみると、歴史に残る怪しげな実験が詳細にまとめられている。
だがしかし、何から何まで嘘くさい
その中にあった一節、『ダイブ』。
要約するとこうだ。
--某国で行われた心理実験。
いや、心理実験なんて体のいいものではない。人類の禁忌に踏み込む罪深い人体実験だ。
どこぞの莫迦が拷問として、他人の意識に潜り、過去のトラウマを引っ張り出して被験者に体験させるということを思いついた。
自分が意識の思念体となって、他人の意識を好き勝手いじるということだ。
数人の科学者が、盲信する科学の可能性を拓こうとその実験に乗った。
結果。
実験者としてダイブした二人の意識が、被験者の意識に取り残された。
実験者の意識はついに元の肉体に戻らず。
自分以外のふたつの意識をその中に秘めた被験者は狂乱状態となりそのまま死亡。
以来、実験は行われていない--
……この話が真実だとして。
技術的にこんなことができるのは、おそらく2010年代に入ってからだ。
この話が真実だとすれば、2020年代の現代においても、狂った実験は行われているということだ。
その発想に到り驚愕した直後、自分も普通でない実験に参加していたことを思い出す。
こうして客観的に見ると、新妻カレンはとんでもなく危険な方向へ進んでいるようだ。
いまは載っていなかったが、いずれクレアの実験がこの本に収められるかもしれない。
真実かどうか曖昧な歴史として。
「こんな話を信じろっていうの?」
「ダイブ実験の関係者を知っている」
先生は静かに語った。
「というか、誘われたんだ。実験のメンバーとして来ないかって。10年くらい前になるかな。気味悪い予感がしたから行かなかったが、正解だった。あやうく人類の黒歴史で自分の人生真っ黒にするところだった。いまのお前みたいにな」
悪態づかれるのには慣れているが、いま言葉ははさすがにこたえた。
「その勧誘の話があったとき、それとなくダイブの方法を聞き出した。理屈がわかれば真似もできる。それができないと思って先方は話したんだろうがな」
本を閉じて、私はふぅとため息をついた。
「具体的な方法とかリスクとか訊きたいことはあるけど、知ってもしかたないよね。どんな条件でも私はやるよ」
「わかったわかった」
ここに来るときよりすこしだけ、胸のつっかえが取れた気がした。
慣れ親しんだこの研究室の空気にも助けられているかもしれない。
「唯一希望があるとすれば、対象が本物の人間の意識じゃないということだ。あくまで人工的に作られた偽物の意識空間。VR空間へのダイブとそう変わりない、とむりやり説明することができる。だからこの方法を教えた。生身の人間にダイブするってのなら絶対に教えなかった。実験が失敗した理由は大方、相手も意識を持った人間だったことだろうからな。混線するに決まってる」
なるほど。
そのように説明されると一応の納得はできる。
もっとも、クレアの人工意識がどれほどリアルに近いのかという疑問はあるが、考えてもしかたない。
「いつから始められるの?」
「やろうと思えば今日からでもできる」
意外だった。
さっき読んだ本では、実験にはスパコンや大量の電線が使われていた。
あんな大がかりな装置を準備するなら、早くても3日はかかると思っていた。
「なにも実験をそっくり再現するわけじゃない。どんな方法でもいいから、実験者と同じ精神状態を作り出せばいいだけだ」
「どうするの?」
「こればっかりは実際にやってみないと確信は持てないが、まず自分の体とアンドロイドの体とコンピューターを電極で繋ぎ、50度のバーボンを飲んだ後全裸で花笠音頭を踊ればおそらく同じ状態になれる」
「え? いま殴っていい時間?」
「疑うなら帰ってもらっても……」
「あーごめんなさいごめんなさい。じゃあ根拠を説明して」
いつも急にふざけたことを言い出すから、そう簡単に信用できなかった。
「意識の周波数を合わせるため、意識を混濁させるんだ。正常な状態だと意識は混ざり合わない。異常な状態におかれてはじめてシンクロする」
「つまり、正気じゃできないようなことをすればいいと」
「とびきり異常なことをな」
先生はお土産のお菓子をもう食べ終わったようで、空の容器をゴミ箱に投げ入れた。
5000円がものの20分でゴミになった。
「人間の意識に入るよりは簡単だろうから、ひとまずそれを試してみろ。だめだったら自分で他の方法を探せ」
「……わかった」
本当にその方法でいいのか、という疑念でいっぱいだが、他に手段はない。
先生はきっと、最初から見抜いていた。
クレアを元に戻すのなら、小手先じゃだめだと。
彼女の奥底、彼女の深層と直接出会わなければならないと。
意識を刺激する危険はあっても、直接改変はしないように。
うまくいけば彼女をまったく傷つけなくて済むという解のひとつが、ダイブ。
「ありがとう」
自然とそんな言葉がこぼれた。
自分ひとりでは、絶対にたどり着けない答えだった。
「そんな言葉、学生時代にもいわれたことないな」
先生は困ったように頭を掻いてそういった。
たじろぐ姿がちょっとだけかわいかった。
「じゃ、先生もお忙しいだろうから今日は帰るね。次は遊びで来るから」
ドアに手をかけたときだった。
「新妻」
先生に呼び止められる。
「もう私には頼らない、今回が最後だといったな」
「うん」
「その後はどうする。この先、誰を頼りに生きていくつもりだ」
その言葉を聞いてふと、レミの顔がちらついた。
食堂でのあの言葉。あの表情。
あのときはすこし冷静ではなかったが、いまならちゃんと見える。
「ベタな話をするが、人はひとりじゃ生きていけない。私みたいなやつでも、依存できる相手を捜しながら生きてる。私を頼れとはいわないが、誰かお前の味方になってくれる人はいるのか」
万にひとつ、だけど。
彼女となら、もしかしたら。
「……わからない。わからないけど……信じてみたい人ならできた」
わかり合えるかもしれない。