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9月30日-1 銀座ハプスブルク・ファイルヒェンのテーベッカライグロース

数日前に会ったとき連絡先を訊かなかったのは、もう頼らないようにしようという決意だった。

先生が多忙なことも、これ以上私の問題に関わることの危険性もわかっていた。

先生、ごめんなさい。

これで最後にするから。

心の中で呟き、車窓の外に目を向ける。

朝の日の光を浴びて、故郷の田んぼはきらきらと輝いている。


電車に揺られつつ、クレアの身に起きたことを整理してみた。


ひとつ、記憶を失っている。

しかしまったくの初期状態ではない。

最初はあいさつ以外の言葉などまったく知らなかったのだ。

その点に関しては人間の記憶喪失に近い。


もうひとつ、性格が変化している。

あんなにハイテンションな彼女は当然見たことがない。もはや別人といっていい。

そもそもの問題として、彼女の性格がどこで形成されているのかわからない。

いや、もともとアンドロイドである彼女に性格が存在するのかどうかがわからない。

はっきりさせない限り解決は遠いだろう。

性格、あるいはそれらしきものの正体として思いつくのは、やはり意識コードの運動法則。

以前までの意識コードが漂う様子は、一見無秩序に見えても、解き明かしてみれば美しい式に則っていた。

しかし、いまの彼女の意識コードは完全に崩壊している。

文字や数字がまるで形をなしていない。

ほとんど融解して捉えることすら危うい。

コードの運動を見ても、どの角度から捉えようとしても法則らしきものがひとつとして見つからない。

存在したはずの法則がすべて消え去っている。

一言で表すのなら、原始宇宙以上の混乱というところか。



9月の間きっちり遵守されていたクレアのスケジュールは、今回の件をもって変則的な動きをみせた。

クレアの言動が定まらず運動も勉強もままならないというので、チームリーダーはメンテナンス係である私にこう命令した。


『アンドロイドの認知機能を、最低限会話ができる程度にまで改善しろ。計画が押しているので可及的速やかに頼む』


それだけ告げて私の部屋を去っていった彼の背中めがけ中指を立ててやった。

こうなったのはお前らの責任だろうに。

それとも他の連中は、今後の人生が不自由なく保証されているからといってゴミのようにこき使われても文句ひとつぶーたれないというのだろうか。

だとしたら私は、不自由を買ってでも人間の威厳を保つ方を選ぶ。


脱線が過ぎた。

現状クレアはいつもの部屋、特別実験室に安置されている。

食事を除き、私以外にクレアに干渉する者はいない。

作戦を講じ実行する時間は、今度はたっぷりあるということだ。





「ばな奈だったら追い返すぞ」


はるばる四時間、高い金を払って東京から地元まで帰ってきた元教え子に向かって開口一番、先生はそういった。

もちろんそのくらいは予想していた。


「はい。銀座ハプスブルク・ファイルヒェンのテーベッカライグロース」


「私が絶対知らないやつ選んできただろ」


その理由もなくはないが、ちゃんとした値段のものを選んできた。

ぶつぶついいながら先生はさっそく箱を開け、中身を物色し始めた。


「これで最後にするから。あと一回だけ助けてほしい」


「じゃあもうお前に会うことはないのか。そりゃ助かる」


あいかわらず一筋縄ではいかない人だ。

甘いクッキーのにおいが私のところまで漂ってきた。


「遊びに来るくらいはさせてよ」


「わかったから用件をいえ」


促しながら、先生はキーボードを叩く手を止めない。

いつものことだから私もまったく気にしない。


「この前の件なんだけど、作戦が失敗したの」


「私のミスだっていいたいのか」


「そうじゃなくて、上の連中がむりやりチップを取り外したの」


「そしたらどうなった」


「クレアの記憶は思っていた通り全部消えた。それだけじゃなくて、性格まで変わった」


先生の手が止まった。


「性格、ねぇ。性格なんて呼べるものが本当に存在するのか?」


「それは……私も悩んでるところだけど、とにかく言動が前と違うの」


「言動全体がおかしいのなら、意識の一部というより法則そのものがおかしくなった可能性が高いな。法則といってもあくまで人工的なものに過ぎないなら干渉の衝撃で容易に書き換わるだろう」


「そう。実際には書き換わるどころか、法則が存在しないカオスだけど」


答えながら私は、先生の正解にたどり着く速さに戦慄していた。

敵に回したくないのは、研究所の人間よりこの人かもしれない。


「実際、前のクレアに戻さずに新しくプログラムを作成することはできる。でもそれはしたくない。今回は時間が十分にあるから、できる限りのことはして、いままでのクレアに戻したい」


高級なお菓子をスナックのようにバリバリと頬張りながら、先生は答える。


「ずいぶんとわがままをいうようになったな」


「悪かったね」


「それじゃ、まずお前の案を聞かせてもらおう」


私の考えを聞かない限り、先生は助言すらしないだろう。

昔から、最初に答えを教えない人だった。


「考えたのは、散らばってるコードの断片同士を再編成してみること。記憶は失われたんじゃなく、意識のあちこちに飛び回ってると仮定すれば、手作業で繋ぎ合わすことはできる。そしたらそのうち意識のほうが自動的に自然な形へ修復してくれるんじゃないかって」


ここから先、ひとつひとつの行動のリスクが非常に高い。

ミスをしたら、いま以上に取り返しのつかない事態になる危険がある。

それゆえ、第三者への確認が欠かせない。


「危ないな。ただでさえ制御されていない意識に頼る時点で却下。第一、手作業で修復してたら何年かかるかわかったもんじゃない。記憶は膨大だからな」


そう。こうして意見をもらわないと、気づかずにおおきな失敗を犯すかもしれないのだ。


「……正直、いまのが一番確実だと思った方法。他にはもうない」


先生はおおきく息をつき、しばらく考えこんだ。

考えこむ、という先生の姿を見たのがはじめてで、私は思わず見入ってしまった。

彼女の性格上、どんな突飛なアイディアだろうと、必ず何かは思いつく。

そしてどんな相手であろうと構わずそれをぶつける。

それをしないということは、相応の理由があってのことなのだ。

私は心拍が速まっていくのを耳元で感じた。


やがて、先生の口が重々しく開く。


「他人に、まして元教え子に勧めていいような方法じゃない。でも正直、これが一番手っ取り早いし、うまくいけば確実な方法だ。だがしかし、うまくいかなかったときが酷い。ハイリスクハイリターン。だから勧めたくない」


いつになく真剣な声色に、私は息を呑んだ。

先生が躊躇おうと、進む以外の道はない。


「どんな方法?」


「知ってるか。『ダイブ』っていう実験」


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