9月29日 は?
「首尾よく、とはいかないか」
ソファにもたれながらドウズは訊ねた。
「はい。予期しないエラーが何度も発生します。深層に潜りこむまではいいものの、さらに深くまで行こうとすると弾かれます。アンドロイド自身の意思なのか、得体の知れないものにブロックされている感触です」
コンピューターの画面を見つめながらルエは答えた。
「他のプログラムに影響はあるか」
「衝撃が加わる度、コードの順列がやや乱れます。人間の免疫系と同じく、安全なコードにまで影響が出るようです。言動に変化が起こる可能性はありますが、その他の身体機能は問題ありません」
「彼女自身の意思でブロックしているとしたら、調教過程で意識の力を高めすぎたか」
「新妻カレンの影響でしょうね」
苦虫を噛み潰すような顔でルエはいった。
「君たちの関係に干渉するつもりはないが、作業に支障をきたすようであれば、ある程度の介入はさせてもらうぞ」
「それには及びません。私ひとりで解決できることです」
*
今日は一日中雲が出ていた。
星が眠る夜。
立ったり座ったりをくり返し、クレアの到着を待っていた。
クレアを乗せたストレッチャーが特別実験室の扉をくぐる。
そのときを待ちわびていた私は、扉の開く音と同時に勢いよく椅子から立ち上がった。
クレアのもとに駆け寄り、静かに眠る顔を認めた。
「実験は終了した」
ストレッチャーを運んできたチームリーダーのイツキが静かに告げる。
「成功したんですか」
訊ねると、イツキはわざとらしくため息をついた。
「お前も科学者の端くれならわかるだろう。実験が最初から成功するなどあり得ない。数え切れない失敗の上に成功は生まれる。今回のような最先端の実験なら尚更だ」
イツキの言葉に私はどきりとした。
科学に携わるものとして冷静に考えれば、彼のいったことは初歩中の初歩。
あらためていわれるまでもないこと。
しかし、いまやひとりの人間に過ぎない私にとっては、数ある失敗のひとつでさえ受け入れがたい。
どれだけ軽度な失敗だろうと、彼女にとっての苦痛は私にも重くのしかかる。
「意識系統に影響が出たようだ。おそらくいままでの記憶はほとんど消え去っている。言語や運動に関する基本的なデータはかろうじて残っているようだが、まぁいままでとは別人と思った方がいいだろう。だがお前の任務は引き続き、意識コードの整理だけだ。変わりはない」
私は聞きながら、意識が呆然としていくのを感じた。
私が講じたのは、記憶を保存できるチップを彼女の中に埋め込むという、あまりにか細い策。
あまりにか弱い火。
チップに保存しただけのちっぽけなデータで、彼女を救えるとは思えない。
いまとなっては当然の結論だ。
その場しのぎの思いつきでどうにかなるほど、現実は甘くない。
作戦の可否を確かめてすらいないというのに、ほとんど負けを悟っていた。
「最後に忠告だ。くれぐれも、余計なことはするなよ」
彼は怪物のようにおおきな手で私の肩を叩き、実験室を後にした。
その挙動だけで、私を威圧するには十分だった。
ストレッチャーに横たわるクレアに顔を近づける。
もう二度と開かないのではないかというほど、瞼は重く閉じられている。
祈るような想いでうなじに手を潜りこませた。
万に一つの可能性。
希望とはそういうものだ。
確かめることすら放棄して勝利はあり得ない。
チップが埋まっているはずの位置に手が触れる。
数日前に何度も触れて確かめた感触、皮膚越しに伝わるチップの固い感触は……どこにもなかった。
全身の力が抜け、床に崩れ落ちる。
完膚なきまでの敗北。
チップの存在すら、彼らにはお見通しだったのだ。
「……くそ」
火は完全に消えた。
いや、消された。
甘かった。
彼らの用心深さをもっと警戒するべきだった。
警戒していれば予測できた。
予測できていれば防げた。
もっと有効な策を講じることができた。
しかし、思考はどこまでも仮定。
現実は敗北の一色のみ。
……奇跡。
奇跡とは、起こり得ない現象。
理に適わない事象。
本体に記憶が残っているかもしれない。
記憶が消えたと、イツキがいっていただけだ。
確かめずに受け入れるわけにはいかない。
ゼロに等しい確率に縋るほど、追い詰められていた。
震える指でコンピューターを操作する。
【start-up】の起動音。聞き慣れた音。
カプセルの中で目を覚ます少女。
どうか。
どうか……。
クレア……。
「いぇーい! パンダコパンダネコパンダ!」
「………………………………は?」
は?
「おはようございます! それでは寝起き一発豆知識!」
え?
「パンダの目のまわりの黒いのはね、あれはね、レンコンなんです! へぇー!」
「………………………………」
??????
は
は
?
は?
「--えー、っと」
「ふわぁ。寝起きで眠いので寝ます。おやすミリオネア」
「……クレア」
「ぐぅ」
「クレア!」
大声を出すと、彼女は驚いてこちらを振り向いた。
「私のこと、わかる?」
この質問はしたくないと思っていた。
憶えていないといわれる恐怖と向き合える自信がなかった。
しかし、そんな臆病などどうでもよくなり、ほとんど夢中で訊ねた。
私の目をじっと見つめ、長い沈黙の後、答えた。
「サンダーボルト夫人」
誰だそれは……。
なんだろう。
泣きたいはずなのに。
泣くに泣けない。
彼女の電源を落とした後、どういう感情になっていいのかわからず、ただぼんやりとして一時間が経っていた。