9月25日 セントエルモの火
「大丈夫ですか?」
クレアが後ろから声をかけてきた。
「うん」
自分で呆れるほどの生返事が出た。
「何日も寝ていないでしょう。身体を壊したらいけません」
「ふふ。心配してくれてありがとう」
手に持っていたマイクロチップとピンセットを机に置き、小さく伸びをした。
先生が出してくれたアイディアにすがりつき、記憶保存デバイスの作成に取りかかっていた。
クレアのいうとおり、二日も寝ていない。
「でも、やりたくてやってることだから」
「本当にやりたいことは、小説の翻訳ではないのですか」
低く抑えられた声。
私は思わず後方を振り返った。
驚いたことに、クレアはすこし怒ったような顔をしていた。
「私のために無理をしないでください。私は拒めませんから」
面食らった私は、しばらく口を開けて呆けていた。
「この研究所でいろいろな人に触れています。カレンはその中で、一番私を大切にしてくれるんです。カレンが苦しむ姿を見ていると、私は、なにか……」
クレアは言葉に詰まり、胸のあたりを押さえた。
不覚にも、目が潤んでいくのを感じた。
「私ね、クレア。人と仲良くしたことがないの。生まれてからずっとひとり。だから人にどう接していいのかわからないんだ。でもね……誰かのためにがんばれることがこんなにうれしいことなんだって、最近知ったの。クレアが迷惑っていうなら、ただのお節介なんだろうけどね」
するとクレアは、部屋の隅に置いてある棚の方へ向かった。
棚に置かれたポトスの葉を、すくい上げるようにやさしく撫でる。
「これを見る度、胸が熱くなるのを感じます。これが人間らしい感覚なら、私はとても幸せです」
照れを知らないまっすぐな彼女の言葉は、聞いていてむずかゆくなってしまう。
なんて思う、私の照れ隠し。
マイクロチップが皮膚の下に浸透するよう、皮膚を模したベージュのシートに包んでいる。
米一粒にも満たない大きさ。
ピンセットで彼女の首筋に当てがい、テープで固定した。
血管が透けるほど薄い肌。
「一晩寝れば定着するはずだから。ごめんね、変なもの取り付けて」
「ありがとうございます。これで命が助かります」
クレアはそっと微笑んだ。
大げさなようで、大げさではない言葉。
「セントエルモの火……」
「セント?」
クレアは小首を傾げる。
「セントエルモの火っていう現象があってね、船が嵐に会ったとき、帆の先端が頭の上でピカッて光るの。小説に出てきた一節で、その光を見て船員は生きる気力を取り戻すきっかけになった。ただの静電気みたいなものなのにさ、そこに聖人を見出すんだよ。どんな嵐の中でも、すこしだけ見える光があったら、誰かが見守ってくれてるって信じることができる。このチップを見てたらなんとなくそのことを思い出しちゃって……」
そこまで語って、意識が正気に戻る。
驚き目を見開くクレアを見て、顔が熱くなってきた。
「……いまのは忘れて」
柄になく語りすぎた。
彼女の前ではどうも、冷静でいられなくなることが多い。
「難しい話でしたが、でも忘れません」
そう答えるクレアは、うれしそうだった。
そう思いたいだけの、私の錯覚かもしれないが。
「実験が終わったらぜひ、小説を読ませてください。楽しみにしています」
「……うん」
この場所はすこしだけ寒い。
ここには、私たち二人しかいない。
引きつけ合うつがいのように、私たちはゆっくりと歩み寄った。
私たち二人には広すぎるこの部屋の真ん中に、熱が生まれる。
人とアンドロイドが生み出す、どこまでも人工的な現象。
触れ合うゼロ距離のわずかな隙間に、静電気は生まれるのだろうか。
--カレン
……
私なら大丈夫です。カレンがこんなにがんばってくれたんです
……うん
胸が熱いのは、きっと火が生まれたんです
うん、うん
だから、だから泣かないで
……うん