隣の彼と名前の話
(注)少しホラーな感じです。
僕の隣には、一人の女子がいる。
彼女は、端的に言って至極普通な人で、目立つとことを探す方が難しいくらいだ。けれど、僕は、そんなタイプの人間が一番苦手だ。何故なら彼女のような人は、普通であるが故に誰にでも平等に接しようとするし、そのことに特に疑問も持たない。厄介である。どれだけ関わりたくないと思っても、彼女は適度な距離感で適度に接してくる。毎日毎日飽きもせず、ただ隣の席だという理由だけで。
そんな彼女は風邪でも引いたのか、今日は隣にいない。つまりは心置きなくこの休み時間を小説に集中できるけど……
「……?」
そういえば、僕は彼女の名前を知らなかった。元々誰にも興味を持てなかった僕は、クラスメイトの名前を一人も覚えていない。だから当然、隣の席の人の名前なんて覚えているわけでもない。それはいい。
しかし、今日は少し事情が違う。彼女の方が僕の名前を覚えてしまっているのだ。これは少しだけ悔しいと思う。こちらの名前を連呼されるのも勘弁だし、やり返すこともできない。以前はそんなことすら思わなかったが、今は少しだけ彼女に毒されているような気がした。まぁ、つまり僕にも彼女の名前を知っておく権利があるわけだ。
どうせ隣だ。椅子の名前でも見れば、簡単に知れるだろう。隣も丁度いないしな。
「…………」
ゆっくりと、なるべく教室の光景に溶け込むように自然を身を左に乗り出す。椅子の名前を見るだけいい。それだけだ。そう思い――
「……なっ!」
ない。貼られているはずのものが貼られていない。……わざわざ外したのか? というか元々貼られていたのか? くそっ、これだと彼女の名前が分からない。諦めるか? いやでもそれだと、一方的に僕の名前だけが呼ばれる悪意が続く。一回ぐらいやり返されないと気がすまない。
「………」
仕方ない。面倒だけれど出席簿を確認するしかないな。学校にいてこの方、そんなものは見る必要がなかったので、一度も見たことがないが、悪夢を断ち切るためには必要なことだろう。確か担任は前の教卓に置いていたな。……ってこれ、わざわざ前に行かなきゃいけないのか。必要以上に目立つのは執筆に影響が出るかもしれない。が、背に腹はかえられないし……
一人で葛藤しつつも、最後には席から立ち上がる。どうせやるしかないのだ。面倒なことは先に終わらせるに限る。
「……う」
視線が痛い。どこからか「佐藤君が立って歩いている……!」とか「あいつ、一体何する気なんだ……!?」とかいう言葉が聞こえてくるか、今は自分のことが精一杯で、何も頭に入ってこない。というか僕の一挙一動なんてどうでもいいだろ。僕も他人のことなんてどうでもいいから気にしないでほしい、ほんと。
どうにかして教卓まで辿り着いた僕は、一度その場で深呼吸してから、名簿を手に取る。……いまだに「男子から」という古い観念に囚われたそれを上からゆっくりと眺めていく。
眺めて…………………………眺めて一体何が分かるんだ?
そもそも彼女の出席番号すら知らないのに。ただえさえクラスメイト誰一人の名前も把握してもないのに。……もしかして僕は馬鹿なのか?
思わずその場で頭を抱えそうになるが、どうにか思い留めて、さっさと自分の机に戻ることにする。一秒でもクラスメイトの視線の前に立っていたくなかった。
「……はぁ」
倒れ込むように席に座った僕は、今度こそ頭を抱えて唸る。
もう諦めてしまおう。名前を連呼されてたって、イヤホンを耳に突っ込んでいればいいだけじゃないか。それに最初から誰のことだってどうでもいいと思っていたんだ。独りから話しかけられたとしても、そう思うのは変わらない。僕は、小説だけを書いていられればそれだけでいいんだ。
「…………」
本当に、そうか? 誰一人のことも理解できないような人間が、フィクションの世界を描けるか?
現実と虚構は、一見関係ないように見えて、どこかで影響し合っている。執筆をする作者の気分がよければ、作品は明るい雰囲気になるし、書き手が人生において経験の少ない人物なら、緻密な描写は難しくなる。それと同じ。
現実を完全に切り離した小説は、小説ではないし、少しでも人間味があれば、それは確かに小説になる。
僕が書きたいものは何だ? 僕が成りたいものはなんだ?
僕は――小説家になりたいんだ。
「……よし」
気合を入れるように呟いて、僕は後ろを振り返る。
「えっと……何?」
怪訝そうにこちらを見るのは、隣の少女の友人と思しきクラスメイト。名前は知らない。が、既知の有無など今は関係ない。聞きたいことを聞くだけでいい。
「一つ、聞いてもいいかな?」
なるべく落ち着いて声を整える。そして僕の隣の席を指さして――
「この席の人、名前は何て言うんだ?」
若干気持ち悪い上に馬鹿みたいな質問だが、一息に言えただけマシだろう。自分から人に喋りかけたのって何年ぶりだ?
妙に清々しい気分に浸っていると、質問を受けた少女は、何故か不可解そうな表情をしていた。一瞬の間の後、彼女は少し言いにくそうに視線を揺らして、
「えっとさ……」
何故そんなにも、不気味なモノを見たような目をこちらに向けてくるのだろう。まるで僕が、妄想に憑りつかれたみたいに――
「そこの席、誰も使ってないよ?」
「は――?」
息が、止まる。
……え、いや、何を言ってるんだこの人は。「使ってない」って、昨日まで隣の席には少女がいた。この人だって普通に喋っていたじゃないか!
「……いや、待ってくれてよ、何の冗談だ?」
「だから、誰も使ってないよ、そこ。春からずっと」
……やめてくれ。そんな、わけのわからないモノを見るような目で僕を見ないでくれ。
「ねぇ、大丈夫? 佐藤君ってそういう冗談言わないタイプでしょ? 具合悪い?」
何で。何で僕だけが覚えていて、この人は忘れているんだ? 幻覚なんかじゃなかった。確かに言葉を交わしてた。こんな、フィクションみたいなこと……
心配そうに彼女が手を伸ばしてくるのが見える。混乱する思考が、視野を狭窄していく。
「ねぇ、大丈夫――」
「――っ! ち、近づくな!!」
がたがたんっ! と机を巻き込んで椅子から転げるように落ちる。その音にクラスの視線が再び集まり、ヒソヒソと小さな声が教室を埋め尽くしていく。
「あ……あぁ……」
声が、視線が、僕を異常だと責め立てる。いないはずの少女と話していた僕は、とっくの昔にどうにかなってしまっていたのかもしれない。
現実が、虚構に覆い尽くされていき――
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
そこで僕の意識は暗転した。
――――――
「ねぇ―― 、君、大丈――?」
「ん……」
誰かが僕を呼ぶ声と、身体を揺さぶるられる感触。
徐々に視界が明けていくと、こちらを覗く視線とぶつかる。平均的な容姿に、適度な距離でに接してくるその性格。間違いなく、隣の席の少女だった。
「…………」
どうやら僕は、昼食を食べた後に寝てしまっていたらしい。教室の時計がニ十分ほど経過していた。
「えっと、大丈夫? うなされてたけど」
「……あぁ、うん」
夢、だったのか。いやに明確で後味の悪い夢だったな。ストレスの溜め過ぎだろうか。
隣の席の少女は相変わらず柔らかい笑みを浮かべて、
「寝足りないなら、もう一回寝たら? まだ授業まで時間あるし」
自分でも気づかない内に疲れていたようだし、次の授業も万全の状態で小説を書くためにも、今は休んでおくべきかもしれない。
もう一回寝ようと両腕で枕を作るが、そこで一度思い直し、僕は彼女の方へと身体を向け直す。
「え、えっと……どうしたの、急に」
何故かわずかに頬を赤くする少女をしっかりと見据え、一度深く呼吸する。
少しだけ自分の鼓動が早くなることを無視して、僕は口を開く。
――少しずつ変わらなければいけない気がする。人として、小説家として生きていくことはきっと、現実と向き合うことから始まるはずだから。
「君の、名前を――」
今日も日常は続いていく。