91話 越後の小龍
天正十年六月五日
惟任日向守光秀は吉田郷に在陣していた。そして、神祇管領、吉田兼和の屋敷を内密に訪れていた。朝廷側と今後の方策を摺合わせるための密議を行っていたのである。
「神祇管領殿……今後の方策ですが、まずは京の町衆や、内裏に対し奉り、某の心根を形で表したいと存じまする。つきましては御両所に銀子五百枚ずつを献上致したい。また五山と大徳寺にも百枚ずつ。洛中の地子銭も当面は免除したいと存じまする」
光秀は京の人心掌握の為にまずは経済的な面での施しを提案した。
「それは良うございます。移ろいやすい京の人々の心に響きましょう。
某も内裏との話の中で、覚えも目出度くなるというもの……」
「神祇管領殿に賛同いただき、嬉しく思いまする。
それと、先程とは別に、神祇管領殿にも銀子五十枚を差し上げたい」
「お心遣いありがたく……今後も内裏との繋ぎはお任せを……」
「では、某は明日にでも河内に出陣する所存。一刻も早く津田七兵衛と合力し、羽柴筑前への対策を進めねばなりませぬ故……」
「日向守殿、出陣するという事であれば、洛中を行軍して頂けませぬか?」
兼和が提案した。光秀は軍勢を洛中を通らず、そのまま下鳥羽へ向けるつもりでいたのである。それを兼和は敢えて洛中を行軍せよというのだ。
「何故でござるか?洛中を軍勢が行軍いたすのは遠慮するつもりでござりましたが……何か思惑がおありですかな?」
「日向守殿……内裏は日向守殿を朝廷の外護者たる武家の棟梁と認定しておるのです。ですが、表立ってそれを喧伝したわけではござりませぬ。この機会に京の町衆や、公家衆に対し日向守殿の軍勢を見せつけ、武家の棟梁たることを印象付けるのです。これも目に見えぬ戦にて……」
「成程……ご忠告感謝に耐えませぬ。今後も何かとお助け下され……」
こうして、兼和との密談を終えた光秀は、大蔵長安を呼び出した。
「長安、明日洛中を通って、河内に出陣いたす。畿内の動静は今のところ順調じゃ。何か気になる点はないかの?」
大蔵長安は未来からの転生者の一人である。十五郎が居ない間、光秀を軍師として補佐することになっていたのだ。
「洛中を行軍するのですな?それは良いお考えかと」
「うむ。神祇管領殿に持ちかけられた。かの御仁は、公家にするには勿体ないほど目鼻が効くお方じゃ。わが軍勢を公家衆や町衆に見せつけ、人心掌握に利用せよと……」
「確かに良策と思いますな。しかし、河内まで出陣し、七兵衛殿と話し合われるのですな?どのように説明されるおつもりですか?」
「うむ。七兵衛の一連の行動を見るに、まだ心に蟠りを持っておるであろう。長安や十五郎他、転生者の話を洗い浚いするしかあるまい。すでに我が宿老達にも話した事じゃ。黙っておくわけにはいくまい?」
光秀はすべてを話すつもりなのだ。
「確かに……もし七兵衛殿が与力なされるのであれば、親族衆として重きを為すお方。お話すべきでしょうな……それに、交野城に割拠なされたは、さすがの慧眼と思いまする。畿内の後背定かならぬ者もあれでは容易に動けますまい」
「うむ。七兵衛は絶対に敵に回してはならぬ。若さに似ず、あの軍略は的を射ておる。味方になれば心強いであろうな」
「して、七兵衛殿が与力したとすればその後は、尼崎がでしょうな?
羽柴勢が戻れば、まずはあの辺りが戦場になりましょう。
羽柴勢の戦力はわかりませぬが、池田殿は四、五千は動員出来ましょう。
けっこうな大軍でござります。我が方は明智勢一万、七兵衛殿の二千五百、雑賀衆の三千、根来衆の千五百。確実なのは一万七千程……他の国衆が敵に回れば不利は免れませぬ」
長安は冷静にそう分析して見せた。
「左様じゃ。何としても筒井、高山、中川や河内の国衆を合力させねばなるまい。じゃが、わしが南下すれば、恐らくは従うであろうな?筑前が未だ戻らぬ状況なら、従わざるを得んであろう?」
「はい。何よりもいち早く河内に進軍すべきでしょう」
長安も光秀もこの点では一致していたのである。
六月四日、越中魚津城から、柴田勝家の軍勢が囲みを解き、退却していった。魚津城は歴史的事実と異なり、落城の憂き目を見ず、守られたのである。
撤退する柴田軍を見ながら、城将吉江常陸介宗信は語った。
「左近殿……左近殿のおかげでござる。我らは九死に一生を得ました。
一日遅れておれば、この城は落城し、我らの命運は尽きておったところ。
感謝に耐えませぬ。つきましては、今から春日山に赴きましょうぞ……」
「常陸介殿、ご厚意は忝く思いまするが、御身は大丈夫でござるか?
厳しい籠城で疲労困憊されておるのでは?」
横谷左近は気遣いを見せた。
「何の……去りゆく織田の軍勢を見て、力が漲って参りました。
馬にも乗って駆けることができるくらいじゃ」
そしてその魚津城に、真田源次郎信繁が訪れた。
吉江宗信や左近と共に、春日山への使者として赴くためである。
「常陸介殿、上杉弾正少弼様へのお口添えを頂けるとか……
感謝に耐えませぬ」
源次郎はまず謝辞を述べた。
「源次郎殿、お礼を述べるのは此方の方じゃ。左近殿は敵中わざわざ落城寸前の城に来ていただいた。おかげで我等も命脈を保つことが出来申した。
つきましては甲越同盟復活の件、確かに請け負いましたぞ。
某が直々に付き添い、言上申し上げる所存」
「有難き幸せ……お頼み申しまする」
こうして、すぐに春日山に向けて出立したのであった。
此処は春日山城である。上杉喜平次景勝はいつものように、小姓二名だけを連れ直江曲輪にやってきた。上杉家の執政、直江兼続の屋敷である。兼続は景勝の突然の訪問はよくあることなので、いつものように出迎えた。
「実城様、わざわざの御成り、恐悦至極にござります」
そう言って平伏した。
「うむ……」
一言だけ言うと、小姓たちはすぐに退出した。勝手がわかっているからだ。
「魚津城が無事危機を脱したとのこと。常陸介殿が真田の使者と共に此方に向かって居る由……今後の動静に関連があるかと……」
兼続はそう答えた。
「真田とは……何故じゃ?」
景勝は極端に口数が少ない。それが威厳を増しているのだ。
「さて……与六めも理解致しかねまする。前右府殿生害の余波が東国にも及んでおる証左であるかと……何やらきな臭く思いまする」
「儚いものよの……乱世とは……」
「はい。ですが、我が家が危機を脱したのはそのため。最大限に活かさねばなりませぬ。ついては、越中や北信濃への出兵の好機にて……新発田も意気消沈し動けぬでありましょう」
この時、新発田重家の内乱と、織田家の包囲網に挟まれ、難渋していたのである。それが一気に解放され、外征の機会が訪れたのであった。
「明智とは如何なる者か?前右府の家臣であろう?」
景勝が訪ねた。
「某も伝え聞いた事しか存じ上げませぬが……
前右府殿の重臣にて、多大な功績のあった者とか……
元は浪人者であったらしいのですが、その智謀と軍略で地位を得た者のようにございます。内裏とも浅からぬ縁があるとも聞き及びまする」
兼続が応える。
「好かぬな……主に弓引くなど、新発田と同類か?」
「わかりませぬ……ですが、日ノ本の動静に大きく関わりまする。
無視するわけには参りませぬな……」
「使者の件、良きに計らえ……」
景勝はぶっきらぼうに答えた。
「ははっ……まずは常陸介殿も同道されておる事。
話を伺いましょう。出陣の準備だけは抜かりなく……」
こうして、この若い主従は語り合ったのだった。




