86話 勅使下向
天正十年六月三日
此処は大坂城である。といっても本願寺跡地に数か所の櫓が点在するのみだ。明智忍軍のくノ一、琴音は使者として走り回っていた。そして、孫三郎からからの言伝を雑賀孫市に伝え、即座に戻ったのである。
「琴音……疲れたやろ?休んだらええ。
クソ親父は理解しとったか?」
孫三郎が問いかけた。
「はい。明日早朝には出陣されるそうです。
兵は精鋭の二千。土橋殿もご一緒されるそうです」
「そうか~なら時間もバッチリやな。
明後日には七兵衛殿に対して行動起こすやろ。
蜂屋勢を早く出陣させなあかんな。
ちょっと行ってくる。
琴音も走り詰めで疲れたやろ?休めよ……」
改めてそう言うと、孫三郎は丹羽長秀の陣所に向かった。
「丹羽殿……父孫市から、従軍する旨、早馬が参りました。
ただし、我が父が申すには条件があるそうですが……」
単刀直入に孫三郎は伝えた。
「鈴木殿……この際じゃ。雑賀衆の合力は何にも増して欲しい。
三七殿にも某から申し上げる故、存念をお聞かせ願いたい」
「然らば申し上げまする……
報奨金を通常の倍の額頂戴する事。
そして、紀伊守の官位と紀伊守護職を頂きたいとの事。
それが条件にござる。すでに出陣の準備も出来ておるそうです。
どうも我が父は、丹羽殿がその条件を叶えると思っておるようですな」
「報奨金は造作もない事……
じゃが、官位と守護職はすぐにとは行かぬかもしれぬ。
逆賊明智を討伐した後、内裏への執奏が必要じゃ。
三七殿が織田家の後継となれば叶えよう」
「承知致した。では、その旨すぐに伝えまする。
恐らくは明日にでも出陣いたしましょう……」
「お願い致す……
すぐに岸和田の蜂屋に遣いせよ……早馬にて知らせるのじゃ。
雑賀孫市殿が与力する事と相成った。
即刻、大坂まで出陣するよう伝えよ……」
長秀はこう言って、すぐに蜂屋頼隆に使者を送った。
孫三郎は、変に勘繰られぬように、敢えて長秀に条件を出したのだった。
長秀としても、雑賀衆が元々傭兵である以上、破格の条件を出せば味方する事疑いないと思っているのだ。逆にそうでもせねば、明智勢と互角に戦えない事情もあったのである。
明けて六月四日である。
安土に入城した光秀は、城の宝物を与力した国衆や家臣に分け与えた。そして、近江国内の仕置きと軍勢の配置を手配していた。
最前線になる横山城には、荒木山城守行重を大将に、京極高次。
長浜城には阿閉貞征・貞大父子、佐和山城には山崎片家、そして、安土には近江方面の総大将として、明智左馬助秀満を置いた。
明智直属軍三千と近江国衆の二千、都合五千の軍勢である。
当面はこれで守りは鉄壁となるはずであった。
そして、午後には安土城に朝廷からの勅使が下向したのである。
使者は、光秀の友人でもある神祇管領吉田兼和であった。
厳密に言えば勅使ではなく、誠仁親王からの使者である。
光秀は、安土城本丸において丁重に兼和を迎えたのであった。
使者の用向きは、「京の都と朝廷を守護せよ」という内容である。
つまり、光秀の謀反は朝廷の後ろ盾があり、固有の武力を持たない朝廷の外護者として、武家の棟梁として認定するという意味である。
型通りの儀式が済むと、兼和は語り掛けた。
「日向守殿……宿願叶い良うございました」
「はい。これも神祇管領殿が内裏に御骨折り頂いたおかげにござる。
今後もお力添えお願い致したく……」
「何の……ここまで事が上手く運んだのは日向守殿の軍略故……
某などは大した事致しておりませぬ。
此方こそ、今後共お願いしたい。
内裏との繋ぎは某が精一杯努めましょう程に……」
「神祇管領殿……忝い」
光秀は恭しく答えた。
「それと、近衛相国様から官位の件で摺合わせしたいとの事……
取敢えずは、従三位参議あたりで如何かと……
武家の棟梁となったからには、それなりの官位を帯びねばならぬと仰せでした。宜しゅうございましょうか?」
「勿論、異論等ござらぬ。お願いいたしまする」
光秀の予想通りの官位の提示でもあったからだ。
「日向守殿……一応の儀式は終わりましたが、これからでございます。
友人として申し上げるが、この期に及んでも内裏は全面的に後ろ盾になった訳ではござりませぬ。日向守殿が織田家中との争いで敗北するようなことがあれば、掌を返しましょう。
まずは畿内を制圧することが何より先決でございます。
今後の方策はおありでしょうか?」
兼和は最も肝要な点を光秀に尋ねた。
「はい。近江の制圧は成就し、東の守りは鉄壁となりました。
あとは河内と摂津にござります。明日にでも軍勢を返す所存。
大坂には我が婿の津田七兵衛がおります。恐らくは同心するものと……
また、羽柴筑前がどう出るかでござります。
間違いなく毛利と和睦し、畿内に戻るはず。そこで大戦になりましょう。
某が大軍を率いて河内まで出張れば、去就が定かでない者共も与力致しましょう。
時間との勝負でござります。
羽柴が早期に戻れば、摂津、河内の国衆が逡巡いたしましょう。
また、長宗我部と雑賀はすでに味方にございます。
必ずとは言い切れませぬが、まずは負けぬかと思いまする」
光秀は兼和には洗い浚い打ち明けた。
「やはり日向守殿は一廉の武士にござりますな?
凡将ならば、己を大きく見せるため虚勢を張るはず。
わかり申した。某も一蓮托生にござります。
本音で申せば、日向守殿が天下を治めてもらえれば、某の朝廷内での覚えも目出度くなるというもの。朝廷内は魑魅魍魎の住かなれば、某が取次ぎ纏めましょう程に……」
兼和もまた、素直に打ち明けたのであった。
「神祇管領殿……忝い。お頼み申す」
こうして、安土において儀式は終了したのであった。
兼和はすぐに京に戻り根回しをすることを約し、帰っていった。
「漸くここまで来た……十五郎……どうしておる?
息災でおるのか?早く元気な顔を見せてくれ……」
安土城の天守の欄干から琵琶湖を見つめ、光秀は呟いた……




