82話 安土入城
天正十年六月二日
未の刻を過ぎた頃、明智左馬助秀満に率いられた明智軍は瀬田川を渡り、安土へ向けて進発した。一刻も早く安土城を接収することが目的である。
だが、懸念材料が無いわけではなかった。安土には蒲生賢秀が居り、信長の妻子を守っていた。また子息の忠三郎賦秀が日野城に健在である。兵力は問題外であろうが、追いつめられると安土城を焼くという懸念があったのだ。
左馬助は物見を放ちつつ、適度な速度で軍勢を進めた。すでに本能寺の変の情報は伝わっていると考えねばならない。此処からは、近江の国衆の動きにも注意する必要もあった。阿閉貞征は同心する可能性が高かったが、この時点では去就が不明であったのだ。
一方、安土では蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。昼頃にはすでに京から変の情報が入り、虚実入り乱れた情報に賢秀は振り回されていた。信長に合流すべく、京に向かっていた前田利長夫妻も急遽引き返し、善後策を考えていたのだ。
取敢えず、利長はまだ幼い永姫を尾張へ送り、自身は安土に戻り蒲生賢秀と議論を交わしたのである。賢秀は、信長の女婿でもある子息の賦秀を日野城から呼び、また、明智軍の動向を探らせていた。
「父上……明智軍の先鋒が、すでに瀬田川を越えたまではわかっておりまする。聞くところによれば、山岡美作守は討ち死に。景友殿は衆寡敵せず甲賀山中に立ち退かれた由……」
賦秀は悲観的な情報を伝えた。
「うむ。瀬田橋さえ落せれば行軍を遅らせたであろうに……
日向守は入念に計画していたと見える。
それに、阿閉父子が寝返るのは時間の問題であろうな……」
賢秀は嘆息して見せた。
「左兵衛大夫殿……某はすでに妻を尾張に逃しましてござる。
上様の女婿として、戦い抜く覚悟でござる」
若い前田孫四郎利長が主戦論を語った。
「某も上様のご恩に報いねばなりませぬ。
安土にて迎え撃てば、岐阜か越前からの後詰が間に合いましょう?」
蒲生忠三郎賦秀も同意した。
「今この城にどれだけの兵が居ると思うか?
二千も集まれば良い方じゃぞ?
明智軍は一万下るまい……しかも、二千の兵も減り続けるであろうの……
後背も定かではない。籠城して戦うのは無理があろう?」
「ですが、籠城せぬなら、どうなされるのです?」
賦秀が不満げに尋ねた。
「うむ……上様の妻子を伴い、美濃か伊勢に落ちるとしようか。
柴田殿始め、後詰などいつになるか知れぬ。
そのような博打は打てぬわ……
それにな……明智軍の目的はこの安土城のはず。
宝物にも手をつけず明け渡して逃げれば深追いはせぬ」
「しかし……それでは武士の面目が立ち申さぬ……」
利長がなお食い下がった。
「孫四朗殿もよく聞かれよ。
あの上様でさえ、僅かな隙を突かれてご生害なされた……
日向守が一時的に席巻したとて、明日にはわからぬ。
今は、捲土重来を期すのじゃ。
すぐに、お鍋の方様に伝え、出立の準備を致そうぞ?」
この言葉には、若い二人の女婿も従うしかなかった。
そして、すぐに出立の準備に取り掛かったのである。
一方、左馬助の軍勢は戌の刻(午後八時頃)には近江八幡近くに迫っていた。此処で一部の隊を分け、日野城への経路を塞いだのである。
しかし、蒲生父子や信長の妻子は未だ安土にいた。正確には一度美濃方面に進んだが、物見から阿閉貞征が明智方に同心し、軍勢を集めつつある事が伝えられたからであった。
この時間的浪費が運命を分かつ事になったのである。
近江八幡方面から帰った物見から、すでに日野城への道には明智軍が進撃し、甲賀を経た伊勢方面への逃走も不可能になったからであった。
近江八幡で小休止した左馬助の元に各方面から伝令が到着した。
瀬田方面からは、光秀からの書状を携え明智忍軍が合流したのだった。
曰く、蒲生父子や信長の妻子を丁重に保護し、安土城を無傷で接収する事。
安土を接収できれば、すぐに佐和山、長浜、横山まで進軍し防備を固める事。
光秀の本体が到着した時点で、軍勢の振り分けをするが、軍紀を厳しく勤める事。最後に蒲生父子を味方にする際の条件が記載されていた。
そして、明智忍軍はすぐに同心した阿閉勢と合流し、秀吉の親族を捕縛すべく動く事になっていた。また同時に阿閉貞征からも同心し、忠誠を誓う旨、左馬助にも伝えて来ていた。
「山城守、殿から指図があった。何としても安土城を無傷で接収せねばならぬ。
大した軍勢もおらぬであろうが、難題じゃな……」
左馬助は荒木山城守行重に語り掛けた。
「確かに……退路が断たれ、信長公のお身内がいるとなると、戦にはならぬと思われますが、城と命運を共にする決断をなされるやも……」
「うむ。こればかりはどう転ぶかわからぬ。
そこで、山城守……難儀ではあるが、安土に使者として赴いてくれぬか?
このような役目、一廉の人物でなければ勤まらぬ。
山城守ならば、不足はあるまい……
左兵衛大夫殿には、見返りとして近江半国を与える旨、殿から指示頂いた。
行ってくれるな?わしは城を囲み圧力をかける故……」
左馬助はこの難題を行重に託したのであった。
「承知致した。一命を賭して相努めましょう」
こうして、明智左馬助秀満の軍勢は安土城を囲んだのである。
明智勢に囲まれたことを知った蒲生賢秀は、進退に窮した。
信長の妻子を伴っている以上、囲みを破り逃亡するのは困難である。
降伏するか、城と命運を共にするかの二者択一であった。
明智勢は、城を囲みはしたが、攻め込む様子はない。
読み通り、明智勢が城を焼かれたくない意図が見えていた。
そこへ、明智勢からの使者が訪れたのであった……
「某、惟任日向守の被官にて、荒木行重と申す。
早速でござるが、単刀直入に申し上げる……日向守曰く、天下の安土城を焼くは忍びない。また、故あって上様を弑したが、縁者の方々まで手にかける意志は無い。敵対せぬならば、どなたの身の安全も請け負い、左兵衛大夫殿がお味方されるのであれば、近江半国を遣わすとの事……
これは破格の条件と存ずるが、如何でござろうか?」
行重は有りのままに開城の条件を伝えた。駆け引きなど意味がないからである。
賢秀は使者が来た時点ですでに決断していた。
「荒木殿……某は上様の重恩を蒙った身の上。
また、子息は上様の女婿にござる。
日向守殿のご厚意は有難いが、お仕えする訳には参らぬ。
安土から無事退去させて頂ければありがたい」
賢秀には、これが精いっぱいの抵抗だった。魅力的な条件を提示されても、それに転ぶようなことは矜持が許さなかったのである。
「左兵衛大夫殿……身上の保証は致しますが、この城から落ち延びる事は許されませぬ。我が殿は、左兵衛大夫殿を高く買っておいでです。敵方に回られれば厄介であるから、召し抱えよと……
そこの処をご考慮頂けませぬか?」
行重は正直な気持ちを吐露したのだった。蒲生賢秀程の武将に対して、下手な駆け引きは通じぬと思ったからである。
「成程……日向守殿は左様お考えか?
ならば尚の事、お仕えする訳には参らぬ。
だが、ここで武士の意地を通したとて詮無き事……
退去も叶わぬのであれば、この上は我らの身を預けるしかあるまい。
お仕えする訳には参らぬが、この城は明け渡しましょう程に……」
賢秀はそう請け負ったのである。
談判の顛末はすぐに左馬助に伝えられ、安土城は無血占領された。
蒲生父子や前田利長、信長の妻子は捕らえられたが、丁重に迎えられ、軟禁されることとなった。これが後々の戦況にどう作用するかはわからないが、光秀にとってはこの上ない行幸であった。
そして、六月三日、光秀の本隊が安土城に入城したのである。




