74話 真田の策謀
天正十年五月二十九日日
真田安房守昌幸は、二人の息子と武田信勝、横谷左近を呼び、謀議を重ねていた。差し迫った日程もあり、最後の調整を考えるためであった。
案としては既定路線だが、魚津城での戦略、つまり落城を防ぐのをより確実にするための意見を、昌幸は述べたのだった。
「左近が魚津に潜入し、上杉家の城将を説得するのは良しとして、今一歩駄目押しする必要があろう?源三郎……此処はお前が柴田殿陣所に行って、一芝居せぬか?」
昌幸が言った。
「父上、何か良い策がござりますか?」
「うむ。要は早期の撤退をさせる策じゃ。
柴田殿に、信長公の危機を知らせてやればよい。どうせ間に合わぬのじゃ。
具体的には、武田が実は滅んでおらず、明智と謀議しておる事告げてやればよい。真田の間者働きで知り得たと密告するのじゃ。
まさか密告者が首謀者とは思うまい?
柴田殿は謀とは無縁の武将……やってみる価値はあろう?」
「成程……さすがは父上。某はそこまで知恵が回りませなんだ」
「うむ。では動くとするか?
左近と源次郎は手筈通りにせよ。
信勝様は、今しばらく辛抱してくだされ。
武田旧臣達が表に出てからが勝負にござる」
「承知致した……安房守殿、感謝しておりまする」
こうして、真田一族は動く事となったのだった。
六月朔日、横谷左近は無事に魚津城に潜入を果たした。
すでに二の丸が落ち、正に落城寸前といった様子である。
左近は一人の組頭と思しき兵に声をかけた。
「もし……某、真田安房守の被官にて、横谷左近と申す。
火急の要件があり、此処に潜入致した。
城主にお取次ぎ願いたい……何卒お頼み申す」
「落城寸前の城に潜入とは奇特な御仁……
敵の間者か?何故潜入などと……」
「こうするしか方法がありませなんだ。
何卒お取次ぎを……某も一命を賭しておりますれば……」
「しばし待たれよ」
そう言うと、その組頭は立ち去った。
しばらくすると城将が現れた。長い戦陣での労苦が全身を支配している。
その老将は、先程の組頭に支えられて来たのだ。
「某、上杉弾正少弼が被官にて、吉江常陸介宗信と申す。
老体にて、自ら立つ事能わぬのです……失敬……」
その老将は身なりこそいつ倒れても可笑しくない程であったが、その眼光は些かも衰えていない。流石に上杉家の武将と思われた。
「真田安房守が家臣、横谷左近と申す。火急の要件にて罷り越しました。
人知れず勝手に城内に潜入したことお詫び申し上げる」
「お気に召さるな。この城は風前の灯……そこにわざわざ潜入とは……
命が惜しくはござらんのか?ましてや他家の方……
この上は、その要件しかとお聞きしたい」
「では、申し上げまする。
この城を包囲しておる織田の軍勢は数日で霧散致します。
それまでの辛抱にござる。決して諦めてはなりませぬ。
それがお伝え致したく、参ったのです」
「何と……俄かには信じられぬ。
わが殿の軍勢も引き上げた。上杉家存亡の危機……
何故、織田の軍勢が霧散するのでござる?」
宗信は尤もなことを言った。
「明日……六月二日、上方にて大異変が出来するからでござる。
織田信長は、家臣明智光秀殿の謀反により落命致します」
「何とした事……しかし、何故真田家の家臣である横谷殿がそれを伝えに来られたのか?某のような粗忽者には理解致しかねる。ご説明頂けぬか?」
「はい。実は我が武田家と明智家、そして、長宗我部家、雑賀一党が同盟し、この謀議を画策致したからにござる。六月二日を以って、同盟者が一斉に行動するのです。そして、我が武田家としては、是非、甲越同盟を復活致したいと思う所以でござる」
「待たれよ。武田家としきりに申されておるが、如何な事でござるのか?先般、武田家は滅亡の憂き目を見たと聞き及びまするが……」
さすがに宗信は気付いたようだ。
「さにあらず……我らが策を弄し、滅亡を装ったのでござる。
勝頼公は亡くなりましたが、嫡子信勝様はご健在です。
我が主が匿っており、信長公の死とともに、甲斐武田の復活を宣言いたす所存。各地に潜伏している武田旧臣は諸手で馳せ参じましょう」
「重ね重ね驚くばかりでござる……そのような遠大な謀議があったのですか……なれば、我等も無駄死にせずに済むという事でござるな?」
「左様です。実は、柴田殿にも我らの使者が参っておりまする。
信長公の生死がわかるまでは、動きが止まりましょう。
そして、事実を知れば軍勢は潮が引くように撤退致しましょう?」
「成程……左近殿、そのご厚意有難い。早速軍議にかけましょう。
我らは明日には全員腹を切る準備をしておった処……
仮に左近殿の申されることが事実でなくとも、死ぬのが延期されるだけにござる。某が説得致しましょう程に……すぐに城を出られよ」
宗信は、左近に退散するよう促した。これは宗信の好意であった。
「いえ、折角でござるが、某此処に残りたく……
万一敵が攻めてくれば、微力ながらお力添えを。
それに……某は成功を信じておりまする。
そして、もし某の言う通りになれば、常陸介殿に、上杉弾正少弼様への執り成しをお願いいたしたい。これは、我が主真田安房守及び、甲斐武田当主、信勝様の御意志でもありまする」
「わかり申した。左近殿……某は信じる。
必ず我が殿へも申し上げ、甲斐武田との同盟、復活させましょう」
こうして、魚津城は徹底抗戦の構えとなった。
一方、源三郎は使者として、柴田修理亮勝家の元を訪れた。
火急の要件を伝えると、すぐに本陣に呼び出されたのである。
「真田源三郎信幸にござります。
火急の要件で罷り越しました」
「柴田修理亮勝家である。どういう事か?」
織田家の古参の筆頭家老である。すでに老境の域に入っているが、その武威はまったく衰えず、むしろ軍団長として開花し、威厳を伴っていた。
「はい。実は織田家に対し奉り、遠大な謀議が張り巡らされてござります。
上杉家が、滅亡した武田家の嫡男を匿い、明智と同盟し、上様を亡き者にせんとしておられまする。今上様は京にご滞在のはず……明智殿の軍勢に襲われるやもしれませぬ。
我が真田の手の者が入手した情報故、信憑性は不確かですが……」
源三郎は淡々と語った。
「何じゃと……お主、それはどこから聞いた事なのじゃ?」
「上杉家の軒猿の一人を捕らえ、口を割らせました。
もうすでに死にましたが、確かにそのように言っておりました。
世迷い事とも思われず、罷り越した次第。
万一事実ではあれば一大事……」
「源三郎とやら……他言無用ぞ。
事実か確かめる故、そなたは陣中で待っておれ。
早速、京に早馬を差し向けよ。念のため三騎走らせるのじゃ。
それと、諸将を呼べ。軍議じゃ……」
あの鬼柴田が動揺しているようだった。
源三郎はほくそ笑んでいた。
どうせ間に合わぬ……そう踏んでいたからだ。
21世紀であれば、このような駆け引きはできないな……
これで魚津への攻撃は一先ず緩もう……そう確信したのだった。




