69話 饗応役
天正十年五月八日
光秀は、信長に召し出された。事前に十五郎から聞いていた通り、家康の饗応役の件かと思われた。予め心の準備をした上での伺候であった。
果たして、「家康暗殺せよ」などと……命ぜられるのか?
不安なのはその一点である。もし命ぜられればどうするか……
答えは無論決まっていた……
「上様……お召しにより参上仕りました」
「おぉ~~キンカン、待って居ったぞ‥‥‥何やら気苦労が多いのか?
顔色が優れぬようだの?お互い年であるからな……ハッハハハッ‥‥‥
で‥‥‥他でもない。家康が安土に来よる……
饗応役を命じる。精々持て成してやれ……」
「ははっ。精一杯相努めまする……」
「うむ。家康め……何やら不安そうよの……
道中は伊賀者で固め、ビクついておるわ‥‥‥
実しやかに囁かれる噂……信じておるのかの?」
「……と、申されますと?」
「知っておろうが?わしが安土に呼び出して、家康を亡き者にする……
甲斐武田が滅びた今、三河との同盟が不要とな‥‥‥
囁く者も多かろうの?凡人の考えそうな小さき事よ‥‥‥
まあ、強ち嘘ではないがな……」
「嘘ではないと……」
「ふんっ……家康が逡巡してワシの招きに応じねば、首を刎ねるつもりでおったのよ……巷の噂を信じてな……だが、覚悟を決めたと見える。
あやつは律儀な男よ……ワシはそれなりに遇するつもりじゃ」
「ははっ。安堵いたしました……この上は饗応役、相努めまする」
「うむ。励むがよいぞ……」
光秀は、胸を撫で下ろしていた。取敢えず難問を回避できたからである。
もし、暗殺を命じられれば、諌止するつもりであったのだ。
その場合、当然信長の勘気を蒙ることになったであろう……
だが‥‥‥本能寺の変の後で、家康を暗殺しようとしている……
そこに自己矛盾を感じていた……
「助けておいて、事の成就の後に葬る‥‥‥
この事だけでも、地獄に落ちような‥‥‥」
光秀は心の奥で呟いた。
それから、光秀は準備に追われる事となったのだ。
安土から戻った光秀は、茶室に長安を呼び出した。
十五郎が居ない今となっては、頼りになると思っていたからだ。
「殿……お召しにより参上仕りました。
某も、甲賀より戻ったばかりにござる……
例の『手榴弾』を量産いたしまする。
十五郎様より、明智忍軍を使い、擲弾兵部隊を組織せよと……」
「ほう……今までにない部隊じゃな……
新兵器は、さぞや敵の度肝を抜こうな?」
「いえ、毛利の焙烙火矢に似た武器にて、新鮮味はござりませぬ。
ただ、陸上戦闘で組織的に運用するのは初めてにござれば、如何な結果になるか……ちと想像が難しゅうござる。威力は申し分ないかと思いまするが……」
「うむ。頼むぞ……
それと戦が始まれば、軍師としてワシの傍に居てもらいたい」
光秀が言い出した。
「はい。十五郎様からも、そう言われておりまする……
ですが、某は合戦の経験や知識はござりませぬが……」
「構わぬ。来世での人間の思考など……参考になろう?
それに、未来知識や政治的な手法‥‥‥数多あろう?
色々とこの機会に聞いておきたいのじゃ」
「そういう事であれば……相努めまする。
研究したい事や、作りたいもの、あり過ぎて身が持ちませぬ。
優先順位はありますが、資金的な面、何卒‥‥‥」
「わかっておる。長安が申す事なら糸目なく金を出そう。
頼み入るぞ……して、話は変わるがの……
450年後の未来では、十五郎はどんな男だったのじゃ?
少し興味が沸いての……」
「んん‥‥‥何と申しますか、正直に申し上げれば、空気が読めない御仁です。
特に女心がわからぬのです……許嫁が居ったのが不思議なくらいで‥‥‥」
長安は正直に答えた。
「何と……ハッハッ……そのような野暮ったい男じゃったのか?」
光秀は少し驚いた。
「はい。ですが……
ですが、不思議と人望があるのです。憎めないと申しますか……
誰もが世話を焼きたくなるのです。
これは珍しく、『大将の器』と思いまするが……
某は、未来では彼を指導する立場でしたが、兎に角世話を焼きました。
それに……
それに、十五郎様は兵を動かせば、かなりの采配を振るわれるでしょうな。
未来では、彼ほど戦国の歴史に詳しい者は居なかったのです。
戦国時代の合戦の布陣や、前段階の経緯、そして、どう戦い、結果どうなったのか……すべて頭の中に入っておられるのです。
これは、十分に強みになるかと思いますが……」
「成程……そこまでの知識を持っておるのか……
わしも聞いたことが無かった。確かに役立つであろうな?」
「はい、将来的に采配する場面があれば、軍神たり得るかもしれませぬ。
それと……この時代の各国の武将等、ほとんど知っておられるはず。
あくまで、未来に伝わる情報ですが、政治的にも役立つかと……」
「ハハッ……そうあってほしいものよ。ワシも年じゃからな。
いつまでも戦場には立てぬし、早く隠居したいものじゃ。
今後もずっと支えてやってくれ……」
「ははっ。お任せくだされ……」
こうして、二人は笑い合ったのだった。
その頃家康は、主要な家臣団を伴い、安土への途上にあった。
その中に、服部半蔵正成もいた。
「半蔵‥‥‥どうやら安土までは何も起こらぬな?平和なものじゃ‥‥‥」
「御意‥‥‥饗応役は明智殿との事‥‥‥恐らくは謀はないと‥‥‥」
半蔵は応えた。当然遠巻きに伊賀衆が警護している。
「成程の‥‥‥その人選ならば、信長公に良き接待をしてもらえそうじゃ‥‥‥」
「ですが、城下までは何が起こるか知れませぬ。怠りなきよう致しまする」
「うむ。頼み入るぞ‥‥‥」
「まあ、大丈夫じゃろ~事が起きれば某が御守りいたす所存‥‥‥」
そう言って、ある武者が長大な槍を突き上げた。
家康の股肱、本多平八郎忠勝である。
この時は、お馴染みの具足姿ではなかったが、『蜻蛉切』は健在だった。
「平八‥‥‥その槍は重かろう?合戦じゃあるまいし‥‥‥」
横から声を挟まれて、忠勝はムッとした。
声の主は、榊原小平太康政である。
この両名は何かにつけ、いがみ合うのだ。
別に相手を嫌っている訳ではないのだが、大人気ないのである。
「両名とも見苦しいぞ‥‥‥」
嗜めたのは、酒井左衛門尉忠次である。
この様に、安土行きには徳川家臣団の錚々たる顔触れが参加していた。
万一、城下で襲われるような事にでもなれば、徳川家が丸ごと潰れることを意味する。正に家康の大博打だった訳だ‥‥‥
そして五月十五日、家康一行は安土に到着したのだった。




