260話 坂本炎上
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天正十一年三月二日、夕刻である。早朝に大溝城を進発した徳川三河守家康は、坂本に到着するや、城下を焼き払った。町衆達の悉くは比叡山に退避していたが、光秀が手塩にかけて育てた坂本の町が、灰燼に帰したのである。その様子を、明智十次郎光泰を始め、家中の者は涙を流しながら見つめたのだった。
「十次郎……これが戦国というものじゃ。空しい事ではあるが、気を強く持たねばならぬぞ?」
妻木範煕は孫の光泰に語り掛けた。
「お爺様……わかってはおるのです。ですが、町衆の事を思うと……」
「十次郎殿、人は弱いようで強かに生きるものです。町などは一年もあれば復興できましょうぞ?国の礎は人でござる。右府殿は町衆から信望されておられる。それよりも、心を強く持たれよ。この燃え盛る炎と煙の裏には、夥しき憎悪が渦巻いておる。徳川勢の攻めは尋常ではござらぬぞ」
丹羽五郎左衛門長秀が語った。
そして、坂本の町を飲み込んだ紅蓮の炎は、春雷を伴う雨によって洗われたのである。
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「弥八郎……城は丸裸になったの……配置は抜かりないか?」
家康は満足げに語り掛けた。
「ははっ……城の三方は余すところなく囲んでおりまする。また都からの出入り口と瀬田橋にも別動隊を差し向けました。我が方の布陣は万全」
「うむ、重畳じゃ。して、兵の士気はどうか?」
「坂本の町衆は、皆逃散しておった様子……乱取りもできず、不満は燻っておりましょうが……」
「さもあろう。その怒りは目の前の城にぶつけて貰わねばならぬ。手柄を立てた者には、恩賞に糸目は付けぬ。そう触れてやれ」
「承知いたしました。して、まずは小手調べに攻めまするか?」
「小手調べではないわ……一斉に攻勢をかけよ。この雨では敵の鉄砲の威力も半減しようぞ」
こうして、日没を迎えた坂本であったが、夜の静けさは訪れる事はなかった。徳川勢の総攻めが始まったのである。その喊声と銃声の轟音は、比良の山々に響き渡り、遠く安土にまで微かに聞こえたのであった。
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同日、大坂に至る街道には、一団の軍勢の姿があった。羽柴勢八千が整然と行軍していたのである。軍勢は宇喜多勢六千と木村重玆率いる二千である。軍監として、石田佐吉三成と大谷紀之助吉嗣が同行していたのだ。つまり、羽柴勢は軍勢のかなりの部分を分割した事になる。当然その意図は大坂への対処以外には考えられなかった。そして、大坂城は囲まれたのである。
大坂城は、歴史上では秀吉によって大規模な近世城郭が築かれていたが、この時にはそのような大層なものではなかった。本願寺跡地に櫓や防御施設が構築されただけの小規模な城であったのだ。ましてや本能寺の変後の混乱の中で損傷し、補修されたとは言っても、お世辞にも立派とは言えない代物となっている。そこに、島左近清興が二千の軍勢で立て籠もっていた。清興も郡山から駆け付けたばかりであり、幾分かの負傷兵も伴っていた。補給も万全ではなく、この様子を見て、猛将島左近清興であっても焦りを禁じえなかったのである。
「いやあ、予想通り城内の軍勢は二千程ですねえ。あの様子では一気に乗り崩せそうではありますが、此処は宇喜多様にお任せ致しまする」
石田三成は、子供のような涼しげな童顔から笑みを漏らしながら言ってのけた。
「と申されると、大坂を攻める意図はないと?」
宇喜多七郎兵衛忠家が問いかけた。
「はい、ござりませぬ。ですが、今日明日くらいは囲まねばなりませぬなあ。どの道、明智勢がこの状況を傍観はせぬでしょう。攻めたところで無駄働きでござるよ」
「軍監殿の存念は如何なもので?」
「はい、我等羽柴勢は更に南下致しますので、城の島左近殿を釘づけにして欲しいのですよ。まあ、城から討って出る事など考えぬでしょうが、お願い致します」
「しかし、それでは戦線が伸びすぎはせぬか?可惜軍勢を分割するは愚策とも考えられぬか?」
木村重玆も懸念を示した。
「大丈夫です。明日までには片付きますから。常陸介殿には二千の指揮をお願いします。これより堺の町を囲みますから」
三成は澱みなく発言し、傍らの大谷吉嗣も笑みを溢していた。
「では宇喜多様、お願い致します。これより我等は進軍致します故……」
こうして、羽柴勢二千が更に南下を始めたのだった。
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一方、茨木に滞在していた俺の元にも、羽柴軍動くの報がもたらされた。青母衣衆に高槻城の軍勢を加えて一万三千になっている。尤も、茨木城は灰燼に帰しており、急いで修復に取り掛かっていたのだ。
「若殿……大坂に向かったのは宇喜多勢、木村勢の約八千にございます」
明智忍軍の大吾が物見から帰って報告した。
「大儀であった。しばらく休んでくれ」
「若殿……これは一大事ではございませぬか?大坂には左近殿の二千が詰めておるのみ」
源七が懸念を表明する。
「ですが、此方が後巻する訳には参らぬ。尼崎には未だ数多の羽柴勢がおろう」
斎藤利三がそう述べた。
「十五郎?これは羽柴が俺らを釣り出そうとしとるとしか考えられんのう。左近殿であれば易々と負けはせんやろ。それに。宇喜多勢が主体やったら、本気で大坂を落しに来てるとは思えんけどな」
孫三郎がそう答えた。
「やはり我等が進軍んする訳にはいかぬな。左近殿には申し訳ないが、状況がそれを許さぬ」
「若殿……やはり、大殿に援軍を求めた方が良くはありませぬか?」
「父上も手一杯であろう。近江方面の状況がわからぬ以上は……」
「兎に角、状況を注視するしかありますまい。徒に軍を動かせば取り返しのつかぬやもしれませぬ」
源七がそう答え、俺もこの状況を、父、光秀に伝えるべく早馬を送る事しかできなかったのだ。




