240話 神謀鬼略
茨木における戦いは開戦からすでに二刻が経過している。辺りには早春の生暖かい風が吹きすさび、血と煙硝の臭いを運んできた。明智勢総大将である明智治右衛門光忠の元には刻々と知らせが来るが、好ましいものは無く、冷静沈着な光忠であっても焦りに支配されつつあった。
「申し上げます……多羅尾常陸介様、御討ち死……」
そして河内衆の旗頭であった多羅尾綱知が討ち死にしたとの知らせが舞い込んだ。
「池田勢、野間勢には陣形を崩さず、持ち堪えるよう伝えぃ」
「申し上げます……雑賀鉄砲衆は羽柴勢別動隊、仙谷、木村勢と交戦中。一進一退にございます。ですが敵勢多く……」
「如何程の数か?」
「四千は下らぬかと……」
「如何な孫市殿でも……手に余るか……だが援軍を出す余裕はない……孫市殿……頼みましたぞ」
光忠は心中でそう詫びたのだった。
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膠着した戦線に変化が訪れようとしていた。正面の明智勢と一進一退を続ける羽柴勢では更に別動隊を派遣しようとしていたのである。
「殿……物見からの報告では雑賀の全貌が掴めましてござる。いよいよ仕上げの時にて」
官兵衛は静かにそう語った。
「うむ……わしも全面攻勢に出る。官兵衛頼み入るぞ?雑賀を殲滅できれば手痛かろう。して、明智はどう出るかの?」
「明智治右衛門は兵を退くと思われまするなあ……」
「如何に受けるべきか?」
「殿の本隊のみでは兵数は然程優勢ではありませぬ。敵が退けば、後衛の部隊に攻撃を集中し、兵力を削ぐべきでござる。恐らく敵は高槻城を起点に防ぐ算段を致しましょう。そうなれば勝龍寺への道筋を突破するは容易に……三千も向かわせれば、日向守の首を挙げる事能うやもしれませぬ」
「要は時間……であるな。官兵衛の申す通り、明日までが勝負じゃ」
「左様……殿……戦は時の運でござる。我等は現時点では日向守を追い詰めておりまするが、六分の勝ちで良しとする判断もまた肝要」
「わかっておる。それに後でも虫が騒ぎ出す頃合いじゃ」
「確かに……その場合は捲土重来を期する判断も致さねばなりませぬ」
「尼崎がどうなるかであるな?」
「尼崎は陥落させたとしても最終的に確保するは下策にござる。再度戦略を練り直さねばなりませぬが、我が軍は摂津に駐屯し、有岡の池田勢を睨みながら牽制すべきかと……」
「家康の力を頼るのか?」
「如何にも……徳川殿が近江を抜けば、我等の勝利は疑い在りませぬ」
「わかった……では官兵衛、気を付けて行けよ」
「承知……」
こうして新たな局面を迎えようとしていたのだった。
◇
黒田官兵衛率いる二千の軍勢は、物見を放ちながら突き進む。官兵衛は輿に乗りながら、傍らに控える母里太兵衛に語り掛けた。
「太兵衛……木村殿も権兵衛も上手くやっておる。善助と九郎右衛門には更に戦場の外側から回り込ませるべきであろうな?」
官兵衛は憮然として控える太兵衛に語った。栗山利安と井上之房に分隊を預けていたのである。
「左様ですな……」
太兵衛は振り向きもせず答える。
「不満か?」
「…………」
太兵衛は応えない。いつもは先陣を任される自分が、今回は控えに回されているのが許せないのだ。
「太兵衛?」
「聞こえておりまする」
「太兵衛……これは戦術なのじゃ。相手が雑賀故のな……今は黙ってわしを守ってくれ。必ず働き場が来ようぞ。わしを信じよ」
「はぁ……」
相変わらず太兵衛はそっぽを向いて答えるのみだ。官兵衛も苦笑するしかない。そして戦場の喧騒が近づいた。
「物見を放ち、更に状況を詳細に挙げよ。木村殿と権兵衛に遣いせぃ。互いになるだけ距離を詰めるようにな。上手く雑賀を集めるよう心掛けられたしと伝えよ。善助と九郎右衛門には外側から雑賀を追い立てるよう差配せぃ」
官兵衛の戦略は緻密に組み立てられてゆく。
そして更に四半刻が過ぎようとしていた……
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雑賀孫市も物見を放ち動静を見極めていた。羽柴勢の動きに対して妙な違和感を覚えていたのである。戦場の往来数多の傭兵の勘として、危険な臭いを嗅ぎ分けつつあったのだ。
「大将……敵の新手が現れましたぞ。三つの部隊が散開して迫りつつあるとの事……」
「ほぉーーこら大層なこっちゃ。どいつの部隊や?」
「藤巴の紋所にて。黒田隊ですなあ……」
配下も笑みを浮かべながら答えたが、その声は上擦っている。
「羽柴の軍師が自ら来おったじゃと?」
さすがの孫市もそう言うと黙りこくって瞑目した。孫市の胸中で何かが氷解しつつあったのである。
「大将……如何いたしましょうや?」
「各隊はどんな感じで戦っとる?」
「わっしらは少数ですが、敵は怖がってあまり反撃せんとの事。防戦一方で固まっとるみたいでさぁ」
「不味いのぉ……嵌められたかもしれんわぃ。皆に遣いせぃ……敵と距離を取って追い込まず散開するんや。急ぐんやぞぉ。それと治右衛門殿にも早馬出すんじゃ。敵の狙いは雑賀鉄砲衆じゃとな。すぐに戦場から撤退して高槻まで退くよう伝えぃ」
「合点承知……で、わしらは?」
「わしら以外は敵に姿晒しとる。今は動く訳にはいかん。黒田の考えは読めた。わしらを囲んで殲滅する腹じゃ。間に合わんかもしれんが、なるだけ戦場を離脱させんと囲まれる。急いで知らせるんやぞ」
孫市は官兵衛の策をそう読み切った。
「不覚や……伏兵を逆手に取って、一番うっとおしい雑賀を殺るっちゅう訳やな。こら腹括らなあかんのぉ……まあ取り澄ました黒田の鼻っ柱くらいは殴ったらんと気がすまんがのぉ」
孫市はそう呟いた。
◇
茨木の戦場から数里南へ下った尼崎でも轟音が響き渡った。長宗我部弥三郎信親率いる水軍が現れ、艦砲射撃を加えたのである。無論一隻の船からの攻撃ではあるが、その轟音に囲む羽柴勢は度肝を抜かれた。官兵衛からはこれあるを伝えられていた故に大きな混乱はなかったが、雑兵達の怯え様は尋常ではない。本丸の接近などは到底叶うはずもなかった。そして長宗我部水軍は悠々と接近すると、城内の明智勢の救出を始めたのである。
城内の明智勢は斎藤内蔵助利三を大将に三千人は居たが、半数が討ち死にし、手負いも多数に上っていた。まともに戦える兵は一千にも満たなかったが、監視する羽柴勢も二千ほどであったため命脈を保っていた。
「弥三郎殿……感謝に耐えませぬ。傷病兵を残してしもうたのが心残り」
「内蔵助殿……御無事で何よりでございます。して今後は如何に処されます?」
満身創痍の利三に信親は問いかけた。
「無論、我が殿の危急を助けねばなりませぬ。一旦大坂に入り、後に出陣致す所存」
「しかし、兵力が乏しく疲労も激しいのではありませぬか?」
「如何にも……ですが明智の宿老たる某が黙ってはおれませぬ。例え一千に満たぬ軍勢でも出陣致しまする。某も名の知れた者にござれば、出陣したと相手に知れただけで一定の脅威を与えましょう。茨木へ向けて駆けまする」
「ではご武運を……内蔵助殿を大坂まで送り届けた後、我等が尼崎を牽制致しましょう」
「忝い……お礼の申し様もござらぬ」
「今頃我が軍一万が備前に上陸しておりましょう。羽柴勢全体に動揺が広がるはず。明日まで絶え凌げば我等が優位に……」
「重ね重ね御礼申し上げる。弥三郎殿もご武運を……」
こうして利三は尼崎を脱出し、一度大坂城に入ったのだった。




