239話 茨木の戦い
天正十一年二月二十八日、羽柴筑前守秀吉は開戦の火蓋を切った。先鋒は戸田勝隆である。明智治右衛門光忠は淀川右岸に布陣し、防御の陣形を整えている。軍勢の数は約一万であり、羽柴勢の半数であったが、別動隊を伏兵として忍ばせていた。羽柴勢の別動隊が勝龍寺へ向かうのを阻止するためである。
「今こそ殿の恩顧に報いる時ぞーーー突き進めーーー」
先鋒の戸田勝隆は勇んで明智勢先鋒の河内衆に攻めかかった。そして捻じり合いの激戦が繰り広げられる。辺りは喊声と、朦々とした煙に包まれる。根来衆の一斉制圧射撃が始まったのだ。
「官兵衛……根来の鉄砲も侮れぬのう。火力に関しては引けを取っておると言わざるを得ぬ。宇喜多勢を差し向けぃ。三郎四郎を後ろ巻させるのじゃ。その隙に根来の側面に作内と伊右衛門を向かわせよ」
秀吉は潤沢な兵力を活かし、正面に宇喜多勢を当たらせ、根来衆を釣り出した上で、加藤光泰と山内一豊の部隊を突出させ打ち砕こうとした。
「ははっ……上手くすれば敵の戦線は瓦解致しましょうが……」
「上手くすれば……のう?フフッ……敵もそう簡単には乗ってこぬか?」
「敵の大将は明智治右衛門にございますな。日向守の女婿でもあり冷静沈着の将。手堅い用兵を致す者にて。それよりもそろそろ頃合いかと……」
「うむ……権兵衛に遣いせぃ。ひたすら駆けよとな……この大盾を持っていかせよ。兵の損耗をなるだけ避けねばならぬ」
「承知……四半刻後には常陸介殿にも出陣を。時間の駆け引きが肝要にて。その後、某が自ら手勢を率いて向かいまする」
「うむ……明智方の弱みに上手く付け込めそうであるな?」
「であれば重畳にござる」
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一方、雑賀孫市率いる雑賀鉄砲衆は二千の軍勢を四隊に分け、更に百人一組に再編したうえで戦場から高槻方面にかけて各所に伏せていた。羽柴勢の別動隊が勝龍寺に向かうであろうことを予測し、得意の火力で打撃を与えようというのである。茨木から高槻にかけては起伏もあり、少数の兵を伏せておくには事欠かない地形である。鉄砲衆の伏兵による攻撃は効果的と考えていたのだ。そして予感は的中し、羽柴勢の別動隊の情報がもたらされた。
「敵勢は『無』の旗印。仙石隊と思われます。およそ一千五百」
「出てきおったか……あの一帯であれば伊賀殿が近いな。すぐに遣いしてくれるか?源四郎殿の隊と挟み撃ちにできるやろ」
「土橋様には何と?」
「守重にはそのまま待機するよう伝えてくれ。相手は秀吉や……別動隊は他にも来る。獲物に群がるのは下策や。伊賀殿と源四郎殿にも深追い無用やとよう言うとけ。間断なく攻撃しては逃げて攪乱するんや」
孫市はそう指示を出した。
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雑賀鉄砲衆の不意打ちを食らった仙石隊は、混乱の中に遭った。官兵衛からはその旨伝えられてはいたが、予想以上の攻撃に猛将仙石秀久でもたじろいでいた。
「大将ーーー敵は撃ち掛けては逃げまする。雑兵が怖がって反撃できませぬ」
「捨て置けぃ……百姓の兵は逃げるんが性じゃ。徒歩武者のみで円陣を組んで旋回しながら一歩でも進めぃ。外側に盾があれば被害は最小限に食い止められようぞ」
「しかし官兵衛殿も良く言うたもんじゃ。いくらわしが猪武者でも恐いもんは怖いわぃ」
秀久はそう独り言を言った。
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しばらくしてまた戦場に動きがあった。雑賀衆の索敵に反応があったのだ。羽柴勢の新手が攻め寄せたのである。
「敵勢は木村常陸介と思われます。その数およそ三千……」
注進も明らかに動揺している。
「三千か……木村常陸介といえば羽柴方の良将やのぅ。先の尼崎の折はわしらも苦しんだ。守重にも遣いしてくれ。極力接近戦は避けて立ち回るようにのう。源四郎殿と伊賀殿にも後ろを警戒するようにな」
「しかし、この方面に都合四千五百かい……参ったなあ」
孫市はそう呟いた。
そして木村勢はその後軍勢を二手に分け、家老の木村宗左衛門由信に半数を預け、仙石隊とは別の経路を驀進したのだ。
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戦場の其処彼処では、雑賀衆による鉄砲の音が響き渡っていた。木村勢の前衛部隊、木村由信の隊も銃撃を受け戦闘状態に入っている。これを見て木村重玆はほくそ笑んでいた。
「先鋒の宗左衛門に申し付けぃ。決して止まるなとな。雑賀をすべて炙り出してくれる」
重玆は黒田官兵衛から、ある策を授けられていた。
戦局全体を鑑みた場合、明智方の弱みは戦線を膠着させた状態で別動隊を勝龍寺に向けられることである。当然その対策として伏兵を配するであろう。その部隊は雑賀、根来以外あり得ぬ。勝龍寺までの道筋は伏兵を配するに申し分ない地形。それ故、彼奴等をまずは炙り出す。先鋒の仙石隊への進軍に続き、常陸介殿が向かえば、敵の兵力を鑑みるに、すべてをさらけ出すであろう。まずは雑賀を殲滅するのじゃ。目立った動きをしつつ、雑賀の全軍を引きつけよ。さすれば囲んで撃破する事能うであろう。最後はわし自らが軍勢を率いて向かう。その時点では敵の余力もあるまい……
「さすがは官兵衛殿じゃ……わしは従うのみ。戦場の分岐点を嗅ぎ分けねばならぬ。勝負所は官兵衛殿の軍勢が現れた時じゃ」
重玆はそう呟いたが、心中の言葉を掻き消すように猛烈な銃火が起こった。土橋守重の部隊が側面から撃ちかけたのである。
「怯むなぁ……外縁に盾を持った兵を並べよ。此方の飛び道具は温存せぃ。今は耐えるのじゃーー」
重玆はそう声を荒げた。
この時点で、仙石隊には佐武伊賀守、的場源四郎の隊が攻撃し、木村由信隊には雑賀孫市、重玆の本隊には土橋守重が撃ち掛け、戦闘状態に入ったのである。
「官兵衛殿……敵を釣り出しましたぞ。あとは膠着状態を作るのみ……なるだけ早う来援して下され……某でさえ、あの鉄砲衆は怖い……雑兵が逃げ出す前でなければ太刀打ちできませぬ」
重玆はそう心中で呟きながら配下を叱咤ていた……




