217話 目に見えぬ戦雲
天正十一年二月十八日、播磨灘から吹き付ける風は、心なしか春の気配を含んでいた。姫路城の天守から羽柴筑前守秀吉は目を細めながら城下を眺めている。今回が勝負じゃ……そう決意を新たにしていたのである。
黒田官兵衛孝高は、伊賀衆からの報告を持ってその場所を訪れた。
「殿……三左の配下から報告が入りました」
「官兵衛か……光秀の動きはどうか?」
「その件についてご報告がござります」
「あまり良い知らせではないようじゃな?」
官兵衛の言葉尻から秀吉はそれを察した。
「大和の蝙蝠殿が誅された由……槇島にはその首が晒されたそうにござります」
「光秀を甘く見た報いを受けたか……然もありなんじゃ。蝙蝠殿は謀が好きな割には脇が甘過ぎる。手駒の一つが潰えたは残念じゃが、後が肝心じゃ。筒井の家は如何相成る?」
「追っ付報告が来ると思いまするが、日向守の事……手抜かりなど無かろうかと。養子の定次殿に筒井家を継がせ、意のままに家中を操るでありましょう。ただ、大和国内は不安定になりましょう。箸尾宮内殿に遣いを出し、一揆衆を煽り、大和国内に造反の芽を。このくらいはやらねばなりませぬ」
「能うるか?光秀の事じゃ。その対策もしておろう」
「そうとわかっておっても効果はございます。聞く処、槇島に同道した軍勢は三千。大和には手つかずの軍勢もござる」
「わかった。金はいくらかかってもかまわぬ。箸尾宮内や重臣共には餌を蒔いてやれ」
「承知致しました。それと四国の動静でござる。伊予では西園寺、河野家に助勢致す手筈。長宗我部は伊予に侵攻して参りましょう。そこで、島津勢を南予に上陸させまするが、そこで無理やりにでも戦闘に引込まする。弥九郎に水軍衆を率いさせ、三左の配下を同行させまする」
「島津は本気で長宗我部と構えようか?精々、将軍御教書を奉じた義理であろうよ」
「左様でござる。故に仕掛けるのでござる。南予に派遣されておる大将は久武内蔵助殿とか……やり様はござりまする」
「後は摂津に攻め込んでからの方策じゃ。尼崎かの?」
「で、ありましょうな。有岡に抑えを置いたうえで早期に攻略致しましょう。尼崎には内応を仕掛けるつもり。伊丹兵庫頭が斎藤内蔵助の与力となっておりまする。甘い蜜をちらつかせば応じる可能性もござります」
「成程の……伊丹城を返してやると言ってやれ。彼奴にとっては垂涎であろうよ」
「では、それを土産に致しまする」
「官兵衛……其方が頼りじゃ。頼み入るぞ」
秀吉は力強い眼差しを向けた。
◇
同じ頃、岐阜に在陣していた徳川三河守家康も元にも、筒井順慶が誅殺された事実が伝わった。家康は領内に大動員をかけ、三河譜代衆の他、織田旧臣達を纏め上げていた。そして続々と軍勢が集まりつつあったのである。
「殿……やはり日向守殿は侮れませぬな。大和の蝙蝠殿が誅されたようでござる」
「そうか……残念ではあるが、致し方あるまい。元からあまり期待してはおらぬ。それより、北陸方面の仕掛けはどうか?」
「万事抜かりなく……あと数日もすれば火の手が上がりましょう」
「重畳じゃ。して日向守の対応はどうじゃ?」
「安土には明智左馬助を大将として軍勢が集まりつつありまする。横山には城将に荒木山城、そして落ち延びておった安藤一族も復権し詰めたとの事。縄張りも強化され、籠城する兵は少なくとも三千。抜くのは容易ではありますまい」
「死兵と化す……という事かの?」
「恐らくは……」
「だが、横山は何としても攻略せねばならぬ。さすれば後詰が来よう。そこで野戦にて決戦じゃ。問題は明智方の兵数よの」
「西と京の守りに兵を割かねばならぬはず。北陸から呼び寄せる兵数次第でござりましょう。恐らくは有利に野戦に臨めるはず」
「だとすれば、兵の強さでは我等に利があるか?」
「互角と見えまする。兵は強くとも明智方には装備の差がござる」
「弥八郎は相変わらず冷静であるの?」
「あとは総大将たる殿の器量と兵の士気が鍵ですな。殿が劣るなどとは有り得ませぬが……」
「では、陣割りは如何する?伊勢方面に向ける指揮官は小平太が適任かと思うがの」
「仰せのままに……小平太殿を大将に尾張衆一万を充てましょう。近江方面には殿が直卒し、美濃衆、織田旧臣、三河からの直臣共、計三万余にて。領内には彦右衛門殿に一万を預ければ万全でございましょう」
「わしとしても斯様な大軍を指揮するのは初めてじゃ。各隊の指揮官の器量が問われよう」
「平八郎殿始め、皆が此度の一戦に賭ける思いは並々ならぬものがござります。唯一の不安要因は美濃衆でござろうか……」
「横山攻めでは美濃衆に先陣させよ。彼奴等の性根が知れようぞ。有無を言わさず、尻を叩いてやれ」
「承知いたしました。では、出陣は三月三日で宜しいですな?」
「うむ……羽柴方、北条方にもその旨伝えよ。此度は亡き家臣共の復仇を雪がん。皆には京の都に踏み込むまで一歩も退かぬ旨、申し伝えよ」
こうして、徳川方でも出兵の準備に余念が無かったのである。
◇
そして、二月十九日、安土にあった光秀の元へも待望の知らせが届いた。神祇管領吉田兼和からの急ぎの使者である。漸く勅使の派遣が叶ったのであった。武家伝奏役の勧修寺晴豊が越後に下向する事となったのである。副使は吉田兼和が勤め、明智家からの使節をとの要望もあり、光秀は対策を迫られた。
「十五郎……如何に思うか?」
「越後への使者の件にござりますか?」
「うむ。合戦での指揮を考えれば人が足りぬ。生半可な人選では心もとない。庄兵衛とも思うたが、わしの直臣衆を率いて貰わねばならぬしの」
「長安殿では如何でござりましょう?」
「やはり長安しかおらぬか……」
「そう思いまする。上杉家では勅使を無下にするとは思えませぬが、できれば一歩踏み込んだ関係構築をするが得策。それを任せ得る人材は見当たりませぬ」
「わかった……では長安に任せよう。それと、警護衆として源五を随伴させる」
「では左様申し伝えます。上杉家へは取り急ぎ、勅使が向かう旨、伝えましょう」
「うむ……そうしてくれ。それと細やかでよい。土産をの……」
そう言って光秀は笑みを向けた。
天正十一年の戦雲は迫りつつあり、その主役たる三つの勢力は着々と準備を進めつつあった。




