214話 雪下の脈動
天正十一年二月四日、暦の上では春を迎えてはいたが、北国においてはそのような気配は微塵も感じず、生命の息吹も聞こえる事はない。甲斐武田家の宿老となった滝川左近将監一益は、親書を携えて旧知の伊達左京大夫輝宗の元を訪れた。米沢の城下は一面雪景色であり、もう若くはない一益は深いため息をついた。
「これは左近将監殿……斯様な寒中に片田舎までご苦労でござる。しかし、武田の宿老となられた左近将監殿がわざわざ出向かれるとは余程の事でござろうな?さぁさぁ、まずは一息入れられよ」
輝宗は相好を崩して語り掛けた。
「これは忝い。しかし老体となった身には米沢の寒さは堪えまするな。ですが、そうも言うておれませぬ故……」
「やはりひと月もすれば天下が動きまするか?」
「如何にも……左京大夫殿のお耳にも入っておられよう?織田徳川北条が同盟し、日ノ本の勢力図は大きく書き換えられようとしておりまする。我が武田としては些か苦しい戦いを強いられましょう」
一益は傍らに控える、うら若き武将を一瞥しながら答えた。
「そこで、この片田舎までお運びになられたのですな?あぁ、これは嫡子の藤次郎政宗にござる。いずれこの伊達家を継ぐ者なれば同席させたが宜しゅうござろうな?」
「ほぉ……これはまた立派な面構えをしておられる。その隻眼に心の中まで見通されるようじゃ」
「ではお伺いいたそう。腹蔵なく申されよ」
「はい。まずはこれを御目通し頂きたく」
一益はそう言って桐箱に納められた親書を小姓に渡した。それを輝宗は目通しする。そして傍らの政宗にも渡した。
「如何でござりましょうや?親王殿下は天下の静謐をお望みでござる」
「確かに誠仁親王殿下はそうお望みであろうが、最もそれをお望みなのは右府殿……でござろうな?」
「右府殿だけでなく、同盟国たる甲斐武田、上杉もでござる」
「しかし、新発田と抗争を繰り広げておる上杉が矛を収められますかな?」
「是が非でも和睦して貰わねばなりませぬ」
「同様の話は芦名や最上にもされるおつもりですかな?」
「実は芦名左京亮殿には話を濁されました。親書がある故、明確に拒否はされなんだが、本音は越後への未練が見え隠れしておりまする。それに、左京大夫殿や最上右京大夫殿の動向も気にされておるご様子」
「成程……つまるところ我が伊達家が後援を降りれば、新発田も矛を収めざるを得ぬ……という事ですな?」
「ご明察、恐れ入りまする」
「しかし、如何様な道理で此処に来られましたかな?お察しの事と思うが、我が家に誘いをかけておるは徳川三河守殿も同じ。上杉を圧迫し、越後を切り取られよと申されておる。無論、そのための援助も惜しまれぬそうじゃ」
「で、ござりましょうな……某は朝廷のご意志を前面に押し立てるしか術がござらぬ。現状の小さき利で動かれるならば某の無駄足になりまする」
「しかし、左近将監殿は関東の旗印となられた織田家の宿老。その御身が一度は滅びた武田家の宿老となり、信長公を討った右府殿の側に立たれる。如何な戦国の世とはいえ、そこまでさせる何かがござるのかな?」
「まず第一に、徳川殿は信長公が身罷られたのを幸いに、ご子息や我が娘婿を闇で討ち果たし、織田家を乗っ取られた。これを某は許すことができませぬ。
第二に、右府殿は日ノ本の一統を成し遂げられる御仁であると某が判断致しました。未だ道半ばでござるが、長年戦場を往来してきた某の勘がそう告げておりまする」
「左近将監殿にそこまで言わせるほど、右府殿は強い……と申されるのかな?」
「確かに強い……それは邪な心が少ない故でござろうな。公家衆が味方するのも、そう言った為人でござろう」
「失礼な申し様でござるが、この戦国の世で左様な綺麗事が通用すると?」
「通用するかどうかはわかりませぬ。ですが、仮に新発田と上杉の和睦が無くとも、右府殿は勝を得られましょう。時間はかかるやもしれませぬが。何故なら、右府殿は天下の大儀を掲げて戦をしておられる。その実力は徳川、羽柴と同等。此処で、伊達家が右府殿の側に付けば自ずと勢いは増しましょうな。加えて、伊達家が親王殿下の親書を重んじて行動されるとあらば、芦名や最上も同調されましょう。関東以北で伊達家は主導的立場となりまする。そこに利を見出せませぬか?『天下の大儀』と『利』を備える事になりませぬかな?」
「藤次郎は如何に思うかの?」
徐に輝宗は問いかけた。
「左近将監殿の申される事、某も合点が参りまする。それにも増して、我が家の為すべきことは奥州における地盤固めでござりましょう。今は中央の情勢から距離を置くべき時にござりまする」
「左近将監殿……我が家は親王殿下の親書を奉じましょう。新発田からは手を退きましょうぞ。つきましては、真田安房守殿や上杉弾正少弼殿、そして惟任右府殿とも執り成し頂ければ幸いでござる。出羽の義兄のところへ我が軍がお供致しましょうぞ」
「有難き幸せにござる。これは大きな借りが出来申した。以後、何かあれば何なりとお申し付け下され」
こうして、一益は出羽の最上義光の元へと赴く事となったのだ。だが、伊達家が方針を改めた以上、最上家も矛を収めるのは既定路線であり、一益は胸を撫で下ろしたのである。
一益が退出した後、政宗は父、輝宗に問いかけた。あまりにもあっさりと輝宗が決断したため、その真意を聞きたかったのである。
「父上……左近将監殿の顔をお立てになられたのは何故でござりましょうや?」
「お前の考えを聞いて、成程と思うたからであるがの。それだけではないが、要は親書の存在じゃ。朝廷のご意思を無下にはできぬ。大義名分が必要であるからの。もし右府殿が勝を得た場合、我が家の立場が悪くなる」
「もし右府殿や甲斐武田が後れを取れば如何されます?」
「良いか藤次郎……右府殿が後れを取れば、親書があろうが朝廷も掌を返すであろうよ。徳川殿に対しては親書の存在が言い訳にもなろう。それに、わしは徳川殿との繋がりも継続するつもりよ。何方に転んでも、我が家が揺るがぬよう立ち回らねばならぬ。その匙加減を意識する事じゃ。お前は伊達家の跡継ぎである。昨日の敵は今日の味方……戦国の世とは斯様なものじゃ……」
そう言って輝宗は笑いかけた。
「某には真似できませぬ。もっと精進せねばなりませぬな……」
政宗を笑みを返した。




