1話 大勝負
ずっと構想していたストーリーを初めて、文章化する決意が出来ました。
読み辛い点も多々ありましょうが、ご容赦の程を……
天正十年(1582年)六月二日
子の刻を過ぎたあたりか?辺りは鬱蒼とした木々に覆われ、夜空との境が、揺れる木々の騒めきにかすかに蠢いている。
俺は、尾根筋の少し高い木に登り、眼下を見下ろした。
漆黒の中に、わずかに明るい一角がある。
あの辺りが本陣か?距離にして一里以上はあるだろうが、山岳地帯故に思ったより近くに見える。
「若……危のうございます。敵の忍びがどこぞにいるとも限りませぬ」
源七が小声で話しかけてきた。刹那……空を切る音がした。
反射的に枝から飛び降りる。が、二度までも空を切る音……不味い。
眼前には、庇おうとした源七の大きな背中があった。
「若殿、囲まれ申した。如何致しますか?某が防いで、逃げ切ることもできるやもしれませぬが……」
源七は忍びの達人だが、数人に囲まれ、足手まといの俺が居ては……
そんな含みが感じられた。
俺は源七の体を押しのけ、全身を敵に晒した。
「毛利家中の方々とお見受けする。某、上方よりの使者にて、吉川駿河守様、もしくは小早川左衛門佐様にお取次ぎ頂きたく……火急の要件にて、平にお願い申し上げる」
暫しの沈黙が流れた。
「腰のものを捨て、しばし待たれよ」
姿はよく見えぬが、黒装束らしき人影が答えた。
左程待たされることなく、一人の武者、いや老父といった風体の男が現れた。
「某、世鬼政時と申す。もう老体の身ですがの。何やら尋常ならざる事が出来したのですかの?」
「……お取次ぎ頂けぬか?」
俺は懇願調になって声を絞り出した。
この老人は顔は笑っているが、殺気は放っているらしい。
源七の構えを見ればわかる。この場の生殺与奪は、この老人が握っているのだ。
「この翁は、大毛利の影働きを支える者。今、この場を見るに、敵の間者と思われ、閻魔に引き渡されても文句は言えぬわの……」
俺はさらに前に一歩を踏み出し、膝をついた。そして顔を上げ、この老人の目を直視した。
「某は、上方のさる武将よりの使者として、数多の苦難を経て、ここ備中高松まで罷り越しました。命を賭した願い、お聞き届け頂けませぬか?」
老人は、少し驚いた様子だった。
雲間からわずかな月明かりが差し、俺の顔が見えたからであろうか。
「おやおや……使者というには、まだ童ではないか?いや、失敬。しかし、若者が無暗に命を散らすまいぞ……承知致した。余程の事が出来したのであろうな?お取次ぎ致しましょうほどに。じゃが……これはこの翁の独断ゆえ、事あるときはお命は頂戴いたすが……如何に?」
「承知仕った。某の命、お預けいたす。使者の用向きは、ここでは申し上げられませぬ。重ねてお詫びいたしまする」
俺は、機嫌を損ねぬよう細心の注意を払い、この老人に礼を述べた。
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道とは言えぬ森の中を、敵の忍びに囲まれながら急ぐ。源七は呆気にとられていた。
「あのような暴挙をなさるとは……」
しかし、源七は目の奥で笑っていた。身分の違いはあっても、俺は源七を兄のように慕っていた。彼に、親は居ない。甲賀の忍びだが、孤児で拾われ、忍びになったのだ。
というか、それしか生きる術がなかったのだろう。
また源七は、俺の父を本当の父のように慕ってもいた。
薄明りが近づいてくる。左三つ巴の陣幕が、篝火に照らし出されている。
毛利両川の一人、小早川左衛門佐隆景の陣所であった。
俺はまた、待たされることになった。
いよいよ一世一代の『大勝負』だ。
陣所の中で、隆景は憂鬱な時間を過ごしていた。数名の護衛兵と、傍らには法体の僧。
明晰な頭脳を持つ、大毛利の大黒柱たる武将である。
そんな隆景でも現状を打開する「妙案」が見いだせずにいた。
「殿、少し変わった敵の間者を捉えましてございます。と申しましても、かの者が申すには、上方よりの使者であると……如何取り計らいましょうや?」
世鬼政時は、主君隆景に問いかけた。
「翁か?それはまた変わった使者であるな……翁、顔が笑っておるぞ。何かまだ言い足りぬのではないかの?」
「ハハハッ、殿にはかないませぬな。殿の憂鬱を晴らす吉兆やもしれませぬな。
あるいは、大毛利を滅ぼす凶兆かもしれませぬが……
その使者、年端も行かぬ若者にて、お連れした次第。
その者の目があまりに覚悟を決めた眼差し故、気になりましてな」
「ハハハッ、翁も丸くなったものよのぉ……冷酷無比な忍びの棟梁と思えぬな。息子らに家督を譲り、隠居すれば、丸くなるのかの?よし、会おう。わしが見極めてやろうて」
ほどなくして、俺は陣所に通された。護衛の兵に囲まれているが、殺気はない。
「某、名乗る前に、この書状に目を通して頂きたく。ご無礼の段、平にご容赦を」
俺は取り出した書状を従者に渡し、小早川左衛門佐に目通ししてもらう。
見る見るうちに、隆景の顔つきが変わっていくように思えた。
そして、おもむろに隣の僧らしき人物に手渡した。
「おそらくは、安国寺恵瓊……」俺は心の中で思っていた。
恵瓊も、なにやら驚いたような顔つきに変わった。そして、隆景は人払いを命じ、隆景、恵瓊、そして、その正面に俺、後ろに翁、この4人が陣幕の中に残された。
隆景は真剣な眼差しを俺に向け、口を開いた。
「小早川左衛門佐である。使者の用向き拝見いたした。詳しくご説明頂けぬか?まずはお名乗り頂こう」
「はい。某、惟任日向守が嫡子、十五郎光慶と申しまする」