196話 軍師の思考
天正十年九月八日が明けた。昨晩の夜討ちの喧騒は遠のき、水嵩の少ない木曽川の流れだけが軽妙な音を奏でている。俺は思案していた……徳川勢の意図、そして今後如何様な方策に出て来るのか?
昨日の夜討ちは一千程の少数であったと聞いている。とても本気で攻めたとは思えない。かと言って、統率の取れた徳川勢があのような無謀な攻撃をするだろうか?その意図が読めずにいた。
朝餉を終えて沈思に耽っていると、前田慶次郎利益がひょっこり現れた。いきなり客将が本陣に構わず入って来たのである。衛兵も居たが、大小の刀を預けると、傍若無人に俺の前に座った。
「難しい顔をしてお悩みかな?差し詰め、昨日の夜討ちの事でござろう?」
「昨夜は、与右衛門や孫四郎殿への加勢、感謝致す」
俺は当たり障りなく返答した。
「あれは策じゃ。現に十五郎殿は迷うておられよう?」
「当然でござる。某の差配に我等の命運がかかっておるのです」
「配下を信じなされ。そうして初めて命を賭けて戦えるのです。武士とは斯様なものでござる。昨日、某は十五郎殿の策を貶し申した。あれは総大将の策ではないと……ですが家臣を思いやれば、それに応えんとする者も多いのです。十五郎殿には立派な家臣たちが付いておる。それを信じ、また信じさせねばなりませぬ」
「意味がわかりませぬ」
「んん……わしも言葉にするのは苦手じゃ。つまりじゃな、不器用ながらも人から信望されるのが十五郎殿の強みじゃ。そういう星の元に生を受けたとも言える。今更考えや志向を変える必要はなかろう?であれば、言葉は可笑しいやもしれぬが、家臣に尽くしなされ。これは年長者としての勘じゃ……」
「家臣に尽くす……なるほど……」
「自分に正直になれば良い。元々、十五郎殿は家臣が放っておけない可愛げがあるのよ……」
「わかり申した。忝く……」
慶次郎はニコッと微笑むと、すぐに頭を搔きながら立ち去った。
そして暫くすると徳川勢から矢文が撃ち込まれたのである。
曰く、談合致したき儀あり。ついては本多弥八郎正信が其方の陣中まで出向くと……
◇
九月八日の昼前である。夏の暑さも和らぎ、秋の気配が色濃くなってきていた。吹く風は涼やかであり、此処が戦場とは思えぬほど長閑である。その初老の男は地味な黒い甲冑を身に着け、ゆっくりとした足取りでやってきた。美濃長久保城は小城である。急拵えで防御設備が拡充されてはいたが、最小限のものである。正信は城の様子には目もくれず、眠そうな目を俺に向けた。
「徳川三河守が臣、本多弥八郎正信にござる。談合の機会をお与え頂き、恐悦至極」
正信は殊更丁寧に語り、細い眼差しを俺に向けた。その眼は何を考えているかわからず、深謀遠慮を絵にかいたような男だ。
「明智十五郎光慶にござる。昨晩の夜討ちから半日と経たぬうちに談合とは……些か驚いておりまする。如何様な事でござろうか?」
「単刀直入に申し上げる。互いに兵を退く……という事で如何でござろうか?」
「何故でござるか?我等が兵を退くべき理由などござるまい。何か腹案がおありか?」
「されば……我等は伊勢から手を引く……つまるところ、滝川殿については我が織田家からの干渉は致しませぬ。御随意になされよ」
「して、我が方は此処から兵を退けばよろしいか?」
「この城を含め、尾張美濃から撤兵して頂きたい。無論、この小城も織田家のもの……明け渡して頂く事が条件にござる」
「呑めぬと申せば?」
「弓矢の沙汰もやむなし……と」
「それは三河守殿のお考えでござるか?」
「某の独断にて……」
「本多殿としては一刻も早く撤兵し、信濃への対策をしたいと?」
「ご明察恐れ入りまする。ですが、それだけにあらず。上杉は我が殿がおれば返り討ちに出来ましょう。押し返せば良いのではなく、如何に損失を出さずに兵を退かせるか……それが軍師の思考でござる」
「大軍を出せば、武門の名門たる上杉が戦わずして兵を退くと?」
「喜平次殿が阿呆でなければ……長躯した出兵の危うさを理解なさるはず」
「ならば尚の事、我等が此処に居座れば三河守殿は往生されよう?当方には和睦に応ずる理由などありはせぬ」
「左中将殿……本当にそれでよろしゅうござるか?共倒れになりまするぞ?惟任右府殿は天下に名乗りを挙げられた。わが主も同じでござる。我等が互いに消耗して喜ぶのは天下を統べる意志などない者共。斯様な選択を右府殿の嫡子たる左中将殿がなさるとは思えませぬが……」
正信はなぜか俺を官位で呼んだ。今更ながらに自分が朝廷から官位を預かる者と気づいた。
「無遠慮にものを申すものよ……」
「痛み入りまする……」
「では我等が撤兵する条件を言おう。我等が尾張美濃から撤兵するならば、旧織田家中に居る者の家族、すなわち前田孫四郎殿、滝川殿等の身内を返還して頂きたい。無論、我等の元におって、今は織田方にいる者の身内もお返し致そう。如何でござるか?」
「何と……」
正信は予想外の提案にたじろいだ。
「返答や如何に?」
「……」
「お互い覇を競うならば正々堂々と行こうではないか?」
「我等の預かりし者共と其方におる者では数が違い過ぎまする。否、我等の陣営におる者で其方に身内を残す者などほとんど居りますまい」
「左様……数の問題ではござらぬ。お互いをすべて交換する。武士として人質を盾に取った戦いなど気持ちよくはござらぬ。何も不都合などござるまい?これが最終的な条件にござる。叶えられるならば、我等はこの城を含め、尾張、美濃から撤兵致しましょうぞ」
「家中に異論は出ましょうが、某がまとめましょうぞ。人質となった者共を護送するために些か日時を要しましょう。その間は停戦する……という事で宜しいか?」
「異論はござらぬ。本多殿が話の通ずる相手で良かった。礼を申すぞ」
「左中将殿……此度の件は我が主にも話して聞かせまする。右府殿の嫡子は侮りがたしと……」
正信の細い目が鋭く光ったように俺には思えた。
天正十年九月十二日、人質交換が行われ、明智方には前田利長、丹羽家臣団、滝川家臣団などの身内が、そして織田方には津川義冬等の身内が互いに返還された。同日、明智勢は長久保城から撤兵し、織田徳川勢も撤兵を開始したのである。




