170話 江北合戦 十
天正十年七月十五日
此処、江北の地においての戦いは最終局面である。
西の空では橙色の日輪が、蓬莱山の頂との距離を急速に縮めつつあった。
前田又左衛門利家は明智治右衛門光忠の軍勢との戦いを若干有利に進めてはいた。だが、蒲生勢の来襲により、それも限界に来たことを悟った。
「申し上げます。美濃勢は蒲生勢の突破を許し、撤退した模様……
蒲生勢、細川勢はそのまま南下したように……」
「相分かった」
利家は何の言質も与えず瞑目した。
三七殿……柴田様……どうやら戦の趨勢は決したようにございます。
もうすぐ日没……何卒ここは兵を退き、捲土重来を図られませ。
明智勢も無理な追い討ちはせぬでしょう……何卒……
利家はそう心の中で語り掛けた。そして……
「各隊に伝えよ。鉄砲衆を前面に集め一斉射撃し、その後明智勢の左側面に突撃しつつ一目散に戦場を離脱するのじゃ。今なら敵は無理な追い討ちはせぬ。急げーーーっ」
「叔父御?織田家を見限ると申されるのか?某は承服致しかねますぞ?
まだ負けた訳ではござらぬぞ?」
例によって、前田慶次郎利益が噛み付いた。
「慶次郎?戦の機微がわからぬ訳ではあるまい?
この戦は勝てぬ。であれば、今のうちに兵を退くしかあるまい。
わしは家臣たちに玉砕せよと命じる訳にはいかぬ。
生き残れば捲土重来もあろう?今ならそれが叶うのじゃ」
「では叔父御はそう為されよ。某だけでも蒲生勢の後ろから攻めかかりまする故……今撤兵すれば前田家の名折れにござるぞ?」
「ならぬわーーーっ」
「何故でござる?」
「慶次郎、聞くが良い。わしは織田家に重恩を蒙った。柴田様にもな?
だが、これから時代は変わる。織田家が以前のように天下に覇を唱えるのは絵空事になったのじゃ。わしには家臣達を守る役目がある。無謀な戦いを強いる事など許されぬのじゃ。慶次郎も我が家臣の一人ぞ?今は殿など必要は無い。今しかないのじゃ……黙って従ってくれ。言いたい事があれば、生き残ってから聞こうぞ?」
「……」
慶次郎は何も答えなかった。
「皆の者ーーーっ 良いかーーーっ?」
利家は駄目を押すように全兵に命じた。
◇
織田勢後衛部隊左翼の拝郷五左衛門家嘉の元へも戦況が知らされた。
家嘉もまた、藤田伝五行政の軍勢と互角に渡り合っていた。
しかし、美濃勢の撤退と、前田勢が戦場を離脱しつつある状況が伝えられたのである。
家嘉は自身の軍勢だけが戦場に留まるかどうか迷った。
この戦の成り行きは当然不利なものとなろう事は自明である。
自軍のみがこの場に留まったところで大方の戦局には意味はない。
だが、家嘉は簡単に主家を見限るという決断は出来そうもなかった。
「殿?如何なされます?」
注進の武者が問いかける。
「各将に申し伝えよ。前面の明智勢を突破させる。その上で戦力を結集し、陣形を再編する。柴田様は最後の一戦をしておられる。結果はどうあれ、わしは武士の意地を貫く覚悟じゃ。
前方明智勢の左翼に攻撃を集中し、一度戦場を離脱する。その上で明智勢の後方から仕掛けるも良し。あるいは万一、三七殿や柴田様が撤退なさるのであればそれを援護する。
皆には済まぬが、わしは斯様な生き方しかできぬのじゃ……」
「承知……我等も諸共に」
配下達は勇んで同意したのだった。
そして家嘉の軍勢が動き出した。
拝郷勢の動きを見た藤田伝五行政は、不自然さ感じつつも前方が開けた事で突撃を開始した。拝郷勢はさしたる抵抗をすることなく道を開ける。
行政は焦っていた。一刻も早く光秀を救わねば……その一心だったのである。
自らが拝郷家嘉により行く手を阻まれ、この一大決戦において活躍できない自分を呪っていたのだ。
「駆けよーーーっ 一直線に殿の本陣に駆けつけるのじゃーーっ」
行政の軍勢は拝郷勢を突破すると、全速力で突撃していった。
◇
柴田修理亮勝家は光秀の本陣目掛けて突撃を敢行している。
両軍は入り乱れ、最後の力を振り絞り戦っていた。
「掛れーーーーっ」
勝家の声は光秀の本陣までも届いている。
勝家の馬廻り衆の攻撃を受け止めていたのは、妻木忠左衛門範武、池田織部正輝家、多治見国清等、親族衆や譜代衆である。比田帯刀や進士貞連の鉄砲衆も白兵戦に加わり、さながら消耗戦である。
「申し上げます……後方より蒲生勢……それに美濃衆、前田勢撤退の模様。
敵の後衛部隊が押し寄せて参ります」
勝家の元に注進が駆け付けた。
「間に合わなんだか……相分かった。これより最後の突撃を致す。
皆の者ーーー勇めやーーー掛かれーーーーっ」
勝家の馬廻り衆は敢然と明智勢本陣に突撃した。
「狙うは光秀の首のみじゃーーーっ 前だけを見よーーーっ」
光秀の本陣を守る兵達も必死である。一団となって壁を作り防ぐ。だが、備えの間から柴田勢が侵入し、光秀の本陣に突っ込んだ。
「いかんっ……行かせるでないーーーっ」
妻木範武はその様子を伺いすぐに追いかけた。
柴田勢三十人程が光秀の本陣に討ちかかる。そしてそれを護衛する小姓達が身を挺して戦う。
そこへ、範武が十名ばかりの馬廻りと共に横槍を入れた。
まさに光秀の本陣へ柴田勢が乱入する直前だった。
「一騎たりとも通さぬぞーーーっ」
範武は縦横に槍を振るい柴田勢を蹴散らす。
「良いかーーーっ?本陣にもいつ敵が来るかわからぬ。殿の周りを固めよ。盾を構え、飛び道具にも備えるのじゃ」
大蔵長安が本陣の小姓達、馬廻り武将に指示した。
だが、断続的に突破した柴田勢が攻撃を仕掛け来る。
本陣の前面では壮絶な白兵戦が展開され、水色桔梗の陣幕にも柴田勢から放たれた矢が飛来した。
光秀は床几に腰を下ろしたまま、じっとその様子を見ていた。
「死線……じゃな……我が天運……通ずるや否や……」
光秀は独りそう語った。
柴田勢は備えの間を突き破り、次から次へと本陣に来襲した。
「パパパァーーーン」
柴田勢の一隊が本陣前まで来た時、光秀の本陣の側面から鉄砲が撃ち掛けられた。
勢い込んで突撃してきた柴田勢は薙ぎ倒される。
「殿……左馬助様の軍勢にござる」
注進がそう告げた。
助かったか……天は我を生かしたか……
「申し上げます。妻木忠左衛門様、多治見修理様……討ち死になされました」
更に注進がそう告げた。
「何と……忠左衛門が?」
安堵したのも束の間、光秀の元には悲報が齎された。
妻木範武は親族衆であり、妻の熙子の弟である。多治見国清も美濃時代からの譜代家臣であった。
「相分かった。左馬助が来れば何とか持ち堪えられよう。引き続き守りを固めよ。柴田勢の攻勢もそろそろ限界であろう……各隊の状況はわからぬか?」
光秀は問いかけた。
「殿……左馬助殿が駆け付けたという事は敵左翼は三七殿の守りに回ったと考えられまする。恐らくは我が軍両翼が突破し、敵を囲みつつあるかと思われまする。本陣を固めておる限り、勝は見えましょう」
大蔵長安がそう状況分析した。
「そうか……勝ったか……」
光秀は誰にでもなく一人そう言葉を発した。
ちょうど弱々しい日輪が蓬莱山の山の端に隠れた時であった……




