169話 江北合戦 九
天正十年七月十五日
江北一帯を鮮やかな夕焼けが支配しつつある。琵琶湖の水面はその朱色を映し出し、眼にも眩しかった。その景色を作り出す日輪はあと四半刻も経たず比良の山々に没するであろう。だが、そのような自然の摂理とは趣を異にして、人間たちは命の奪い合いを続けていた。
「申し上げます……森長可様、討ち死に……」
注進した武者は跪いたまま動かない。
「大儀……右翼部隊は敗走したか?」
「いえ……森様は少数の別動隊を以て突出した模様。森勢は各務兵庫殿が支えておられまする」
「相分かった。兵庫には引き続き、伊勢勢を引き付けるよう申し伝えよ」
「勝介……五兵衛と彦二郎に敵中央部隊を引き付けるよう申し伝えよ。
敵の本隊も後がないはずじゃ。行くぞーーっ」
勝家は徳山則秀と原長頼に明智勢を足止めするよう遣いを送り、自身の馬廻り衆で最後の突撃を試み、明智勢本陣に突撃する決意をした。
「ははっ……殿……某、殿と斯様な戦が出来得る事が無上の喜びにございます」
「うむ……わしも老いはしたが、今は力が漲って居る。
上様と戦場を駆け回っておった頃を思い出すわぃ……
では参ろうぞ……皆の者ーーーっ
掛かれーーーーーっ すわ掛かれーーーーーーっ」
勝家の馬廻り衆の突撃は、明智勢中央を一瞬で寸断した。
溝尾庄兵衛も決して弱兵ではないが、徳山、原勢に対応するので手一杯であり、各所で備えが破れ、その隙間から柴田勢が食い破ったのだ。
五兵衛……彦二郎……後ろは頼んだぞ……勝家は心でそう唱え、備えを整えると突撃を開始した。すでに遮る明智勢もない。光秀に残された兵力は、頼みの綱の鉄砲衆と本陣を守る、親族衆の部隊だけである。
「さて……光秀の首……討ち取る事、能うるや否や……」
勝家はそう呟くと、従者に持たせていた大薙刀を手にした。
「掛かれーーーーーっ」
勝家は光秀の本陣まで届くような大音声を挙げた。
「申し上げます……溝尾庄兵衛様の中央部隊、突破されました。溝尾様も負傷なされた模様……」
光秀の元にも注進が駆け付けた。
「うむ……鬼柴田殿の声が此処まで届いておるわ……庄兵衛は大事ないのか?」
「はっ……浅手にて、そのまま指揮為されると……」
「相分かった。庄兵衛には決して無理はせぬよう申し伝えよ。しかと申し伝えるのじゃぞ」
「さて、皆の者……どうやら最終局面じゃ。わしに力を貸してくれ……
もうすぐ蒲生勢も駆けつける。それに左右両翼も押して居る。今しばらくの辛抱ぞ?」
光秀は本陣の馬廻り衆、親族衆に語った。
「皆の者……何としても大殿をお守りせよ。この戦の趨勢はこの時に掛かっておる。
参るぞ……」
光秀の本陣を守る、妻木忠左衛門範武が繰り返し号令した。
「パパパァーーーン パパパァーーーン」
同時に明智鉄砲衆の一斉射撃の轟音が響き渡る。
光秀が本陣付に最後まで残しておいた進士貞連、比田帯刀の部隊である。
しかし、その斉射をものともせず柴田勢は突撃してきた。
そして、壮絶な白兵戦が開始された。
◇
俺の部隊は織田勢の右翼部隊を突き崩すべく攻めかかっていた。
そして、孫三郎に依頼し、敵の大将を狙撃しようとしていた。
杉谷善之助率いる狙撃隊は、混戦の中後衛部隊の大将、柴田勝豊を狙うべく行動し、漸くその照準に捕らえた。
「わしに狙われたが運の尽きよの……何の恨みもないけど成仏せいや」
心でそう呟くと、善之助はそっと引き金を絞った。他の二名もそれに倣う。
「パパァーーーン」
三発の銃声が同時に響き渡る。
そして柴田勝豊はどっと膝から崩れ落ちた。三発の銃弾が具足を貫いていた。
「御大将……」
小者が慌てて抱え起こす。
「義父上……は?」
「敵の本陣に攻めかかっておりまする」
「そう……か……」
勝豊は最後に小さな笑みを溢し息絶えた。
小者は大粒の涙を溢し、今は動かない勝豊の体を抱え乱戦の中、前衛部隊の柴田勝政の部隊に向かって走り出した。だが、同時刻に勝政も狙撃を受けていたのだ。
狙撃したのは的場源四郎率いる狙撃隊である。銃弾は勝政を正確に捕らえたが、狙撃に気づいた馬廻りが盾となり、勝政には一発の銃弾だけが命中した。大腿部を貫かれた勝政は気丈にもそのまま指揮を続けていたが、夥しい出血で息も絶え絶えである。
「三左衛門様……」
勝豊に遺体を抱えた小者が漸く勝政の元にたどり着いた。
「伊助か?先に逝ってしもうたか……もう喧嘩もできんのぅ」
「この上は三左衛門様を何としてもお守り申す」
「うむ……わしもすぐに行く。其方も付き合え……三途の川は皆で楽しみながら渡ろうではないか?伊助は賑やかなのが好きであったしの?
皆の者ーーーっ 最後まで守り切ろうぞーーーっ」
勝政は大音声を挙げて配下を叱咤した。
◇
「走れーーーーっ ひたすら駆けよーーーっ」
蒲生忠三郎賦秀は無心に駆け続けていた。
「殿……あれなるを?」
「伊賀守殿の申す通りじゃな。細川勢の脇を抜け、一気に美濃衆を突き崩せーーーっ
そして、すぐに織田勢に突っ込むぞーーっ」
「おおおおおぉーーーっ」
蒲生勢二千の軍勢は、夕日を浴びながら一直線に突き進んだ。
駆け続けて疲れ果ててはいるが、その士気は衰えてはいない。
そして、賦秀は先陣を切って馬廻り衆と共に美濃衆に突っ込んだ。
「見参ーーーっ 稲葉一徹殿は何処にありやーーーっ?」
一方、蒲生勢の来襲を見咎めた稲葉一鉄はすっくと立ちあがった。
そして更に注進が告げた。
「我が方の後方よりも敵襲にござる……安藤伊賀守の残党かと……」
「ふんっ……死に損ないまでが来おったか?
戦の趨勢は決した。このまま左に旋回し、一目散に撤退せよ。
我等が逃げれば追っては来ぬ。急げーーっ」
稲葉一鉄は歴戦の強者である。このような状況でも冷静に状況を見極めた。
「鉄砲衆を右翼に集め、蒲生勢が攻め寄せれば撃ち掛けよ。念のためにな?」
蒲生勢は細川勢の左側を抜け、美濃衆の右翼側面から一気に攻めかかったが、美濃勢は反撃することなく左旋回しながら後退する。そして蒲生勢が向きを変えると、鉄砲衆が一斉射撃した。
勢い込んで攻めていた蒲生勢は一瞬怯んだ。
「美濃勢は逃げるつもりぞ……深追い無用じゃ。直ぐに織田勢の後方から攻めるぞーーっ」
賦秀はすぐにそう判断した。
「忠三郎殿……忝い」
「伊賀守殿か?我等はこれより織田勢に討ちかかりまする」
「さすがは忠三郎殿。美濃勢は一目散に逃走致しましょう。我等も些か持て余しておりまする。この老体もひと働き致したく……同道致しまする」
「老練の伊賀守殿の加勢は心強うござる。良しなに頼み入る……」
こうして蒲生勢二千は美濃衆との戦闘も早々に切り上げ、軍を纏めると急ぎ南下した。




