167話 江北合戦 七
天正十年七月十五日もすでに陽は傾き、兵士たちの作る影も長くなってきている。辺りに響く蝉の声も幾分弱々しいが、人間界での争いは熱を帯び、その喊声は一段と高く響き渡っていた。
柴田修理亮勝家は、自身が精鋭部隊を率い、乾坤一擲の突撃を開始した。
明智勢の眼前が次第に黒々と支配されていく。
「来るぞ……鉄砲衆は二斉射の後、後方へ下がり本陣の前面に展開せよ」
溝尾庄兵衛茂朝はそう命じた。
森、佐久間両勢はすでに陣形を再編し、柴田勢の両脇を突進してくる。
「放てーーーっ」
明智鉄砲衆が一斉射撃する。さらにもう一度……
左右からの火線は織田勢の外縁に位置する歩兵たちを打ち倒す。
だが、当然その勢いは止まらない。
そして明智勢の精鋭とぶつかり、怒声と金属音の応酬が始まった。
「掛れーーーーっ すわ掛れーーーっ 」
勝家は大音声をあげながら配下を鼓舞する。その声は明智勢にまで聞こえてきた。
『かかれ柴田』という異名を目の当たりにして普通の武者であれば尻込みするところである。しかし、溝尾庄兵衛茂朝は光秀の股肱であり、守る部隊も精鋭である。
「押し返せーーーっ 一騎たりとも通すでないぞーー」
庄兵衛も声を張り上げていた。
膠着するかに見えたが、やはり兵力では織田勢が勝っていた。時間の経過とともに押される。最初に明智勢の防衛線を破ったのは佐久間盛政の部隊であった。
「申し上げます。御牧景則様、討ち死に……我が方右翼部隊突破されました。
佐久間隊、少数ながら此方に突撃しつつありまする」
光秀の本陣には注進が訪れた。
「細川勢を当たらせよ。幽斎殿に伝えるのじゃ」
光秀はこの状況までは予測出来ていた。自らの懐に敵を入れて殲滅する……これを企図した段階で覚悟してはいた。しかし、この先はまったく読めない。細川勢を差し向けた以上、次に突破されては本陣の馬廻り衆で直接迎え撃つ他はない。
「三左衛門殿?いよいよ出番やもしれぬ。次に突破されれば馬廻り衆の一部を率い迎え撃って貰いたい。それと……鉄砲衆には、次の斉射の後は徒歩武者となり働くよう。混戦ともなれば鉄砲は使う余裕は無かろう」
「殿……果たしてこの攻勢を防げましょうや?」
大蔵長安が問いかけた。
「無理であろう……いつまで防げるかじゃ。あと半刻持ち堪えれば勝てるが……
でなければ、わしの首が飛ぼうな……それまでに戦局全体の刃毀れが起きぬとも限らぬが。
要は、蒲生勢が来るまでに敵の左右両翼どちらかでも崩せれば、敵の足並みは乱れよう。いや、そうなれば勝てる」
「敵左翼は河尻殿とあって、左馬助殿ですら容易には破れませぬか?」
「与兵衛殿は織田家の老練なる宿将じゃ。おそらくは此度の出陣に帰する処もあろう?左馬助であっても至難であろうな?敵右翼も破れぬか?」
「四王天勢も苦戦との報がございました」
「十五郎は動かぬか?難しい判断であろうが、急進して敵右翼を突くのも手ではあるが……」
「遣いを出しますか?」
「いや……それでは遅い。今しかあるまい……」
光秀はそう言って瞑目した。
◇
俺はこのタイミングを待っていた。柴田勢の主力が前方へ突撃を開始し距離が空く。
もう策を弄する余裕はあるまい?俺はそう念じた。
「源七……各将に伝えよ。敵右翼、柴田勢の側背に攻めかかる。
何とか汚名を雪ぎたい……行くぞ?」
「承知……」
こうして俺の直卒部隊一千は全速力で走った。
明智勢の左翼部隊は四王天又兵衛政実、松田政近、土橋守重らが攻勢をかけていたが、柴田勝家の養子二人、即ち柴田勝政、勝豊らの軍勢を突破できずにいた。寧ろ、功を競い合った両将に押され気味であった。
明智勢は距離を詰める。そして、孫三郎率いる雑賀衆が柴田勢の後衛に一斉射撃した。
「パパパァーーーン」
さらに一斉射……それを合図に俺の部隊は一斉に突撃を敢行した。
柴田勢も素早く反応したが、連戦の疲れも見え陣形を乱した。
「明智の小倅か?わしが討ち取ってくれる」
柴田勝豊はすぐに馬廻りを率いて向き直り、俺の部隊と激突した。
「申し上げます……後方より明智勢一千押し寄せて参ります。
伊賀守様が後ろはお任せあれと……」
「相分かった。我等が優勢かとも思うたが甘かったようじゃな?
陣形を変える。何としても敵を通すでないぞ」
柴田三左衛門勝政は動じずにそう命じた。
さて……あと半刻……何としても持ち堪えねば。親父殿、兄者……頼みましたぞ?
勝政はそう念じた。
「申し上げます。若殿の軍勢、敵の後方より強襲。敵は混乱しておる模様」
四王天又兵衛の元に注進が入った。
「よし……この機を逃すな。一気に付き崩す。松田殿、土橋殿にも伝えよ。
全軍を以って突撃し、敵を突破する。すぐに柴田勢本隊に横槍を付けるのじゃ。急げーーっ」
こうして明智勢の左翼部隊も全面攻勢に転じた。
土橋守重の雑賀衆の一斉射撃を合図に、四王天勢、松田勢が突撃する。
俺の部隊も一気に仕掛けた。しかし、柴田勢も容易には崩れない。
「源七……時間が無い。一気に崩せぬものか?」
「若殿……敵も死兵にござる。焦っては仕損じましょう。
此処は半包囲の体制を取り、着実に敵の戦力を削ぐが得策かと。
数的には我が方の有利。無理は禁物にございます」
「そうか……」
俺は焦っていた。側背から奇襲すればもう少し容易に崩せると踏んでいたのだ。
◇
一方、明智軍右翼、左馬助秀満の隊から抜け、大きく迂回していた安藤守就率いる別動隊は、美濃衆の後方に回り込み機を覗っていたが、蒲生勢の来着の報を受け、ひたすら待っていた。
「殿……蒲生様の軍勢、もう少しで現れるものと」
小者が息を切らしながらそう告げた。
「もう目と鼻の先まで来ておられます」
「わかった。ご苦労であった……暫し息を潜め、蒲生勢の来着と共に一鉄の後ろから奇襲する。誰か居るか?すまぬが、今から駆けて蒲生殿に我等の奇襲を伝えよ。一気に美濃衆を粉砕いたしましょうとな?」
「父上……積年の恨みが晴らせましょうか?」
子息の平左衛門尉定治が問いかけた。
「そうありたいものよの……わしの最後の戦となろうて」
こうして、各方面でこの戦いの分岐点を迎えようとしていた。




