157話 黒い影
天正十年七月十二日
此処、横山城は朝靄に包まれている。数刻前まで命の取り合いが嘘のように静まり返っていた、本丸を攻める美濃衆、稲葉一鉄の陣には、密かに使者が訪れていた。その男は修行僧の身なりをしているが、得体が知れない。
「稲葉様……折り入ってお話がござる。これは我が殿が認めたものにござる。御改め下さりませ……もしご納得頂けますれば、お人払いをお願い致す」
一鉄はその書状を一読するや、目配せをして人を遠ざけた。残ったのは嫡男の稲葉彦六貞通のみである。人の気配が消えるや一鉄は返答した。
「お伺い致そう……某もこの戦はそろそろ潮時かと思うておる。否……我等が此処まで織田家に義理立てする謂れは毛ほどもない」
「されば……お話は早い」
「三河守殿は織田家をどうされる腹積りかな?表立って刃を向ける訳には参りますまい」
「無論それはできませぬ。故に、一鉄殿にお力添えをお願い致すのです。尾張衆は水野殿が調略いたし、ほとんどが靡いておりまする。何方も三介殿や三七殿を旗頭に仰ぐのは心許ないと……
織田家の同盟者として、我が殿なればこそ仇討ちも能いましょう」
「本音を申すならば、我等は織田家がどうなろうと知った事ではない。家名の存続が肝要にござる。今更それを恥じることもござらぬ。此度の戦も寄らば大樹の陰……我等のみ懈怠する訳には行かなかった……というのが実情。だが、織田家の宿老達の戦略には無条件で従う訳にも行きませぬ。まあ、我等も美濃に領地を持つ身なれば反論する気概もなかったわけですが……」
「されば、我が殿からの話は……」
「渡りに船……三河守殿ならば我等が旗頭に不足はありませぬ。氏家左京亮殿であれば、某がお味方に引き入れましょう程に……織田旧領よりの加増の件は間違いござらぬな?」
「無論……我が殿は今後、稲葉家を決して粗略に扱いませぬ。あとは……三七殿ですが、我等としては消えてもらった方が良いかと思うておりまする。傀儡として扱うには臆病気質の三介殿がより適任にござれば……」
「しかし、討ち取るなどは我等には無理にござる。さすがにそこまでは……」
「ご心配なく……我等にお任せを……この服部半蔵正成と伊賀衆が請け負いまする」
「承知した。なれば我等が軍議と戦場において上手く立ち回りましょうぞ」
「では……良しなに……」
そう言うと、半蔵は朝靄の中に消えたのだった。
◇
横山城を囲む織田軍では、諸将を集めての軍議が開かれいた。柴田軍の陣所から急いで駆け戻った丹羽長秀が今後の方針を披歴したのである。
「各々方……柴田様も明智勢と決戦致す覚悟。我等は横山の囲みを解き、長浜に向かうつもりである。柴田軍と合算致さば兵力は我が方の有利……何としても上様の仇を討つ覚悟」
「待たれよ……この出兵は伊勢の明智勢が戻るまでの限定では?
此処横山でも我等の死人手負いは多い。我が陣中でも厭戦気分が蔓延しておる」
稲葉一鉄がすぐに反論した。
「一鉄殿は怖気づかれたか?伊勢から戻る明智勢は六千程じゃ。我等が勝を得る事疑いない。明智勢が城に籠っておれば難儀じゃが、日向守は必ず出てくる。これは千載一遇の好機じゃ」
森長可は間髪入れずに反論する。
「戦なれば勝てる保証などありはせぬ。万一後れを取らば如何する?
配下の者等も士気が高いとは言えぬ。当然じゃ……元より明智と全面対決するなど聞いておらぬし、野戦ともなれば更に死人手負いが増えよう?」
「当たり前じゃ。我等武士なれば戦う事が本分。絶対に勝てる戦などどこある?」
「一鉄殿……皆の意見を聞く前に先走ってしもうた某の不手際にござる。許されよ……だが、彼我の戦力や状況を鑑みれば、今が好機なのじゃ。このまま我等が撤兵など致さば、伊勢は蹂躙され、織田家は何も得るものも無い。織田家の威光の凋落を日ノ本全土に喧伝する事となる。お力添えを頂けぬか?もし明智を打倒能わば大幅に領土も切り取れよう程に……」
長秀は恩賞をチラつかせながら遜って宥めようとした。
「某は恩賞など問題にはしておりませぬ。もし負ければすべてを失う。
それに柴田殿とは上手く連携できるのでござろうか?兵卒の士気をどうやって回復するのでござるか?」
「安土には上様の残された遺産も多かろう?戦の倣いにて、雑兵共には乱取り勝手次第……兵卒に至るまで恩賞は手柄次第。如何でござろうか?」
長秀はついに奥の手を披歴した。
「兎に角……我等美濃衆は連戦にて疲労も激しい。宿老の方々の率いる精鋭とは違うのでござる。どうしても明智と決戦するのであれば、我等は先陣などはお断り申す。それと、万一がため横山には兵を残すべきでござろう?」
「美濃衆のお手を煩わすまでもない。先陣は、この森勝蔵がお引き受け致そう。明智勢など某が粉砕してご覧に入れる」
長可が先鋒を志願した。
「横山の囲みは某がお引き受け致そう。敵も寡兵なれば出てくる気概はありますまい」
今までまったく発言しなかった、氏家左京亮直通が口を開いた。
「では、左京亮殿にお願い申す。数刻は兵を休め、本日中に長浜に到着するよう出陣致す。準備を怠りなきようお願い申し上げる」
最後に長秀が発言し、散会となった。
この軍議において信孝はまったく発言していない。だが、不安もあったのだろう、すぐに丹羽長秀を呼び出した。
「五郎左衛門殿……斯様な状態で明智と決戦など無理なのではないか?
一旦美濃まで兵を退き、捲土重来を待つのも一手であろう?
一鉄殿が申したように、後れを取らばすべてを失う」
「殿……越中には上杉軍が攻め入っておりまする。にもかかわらず、修理亮殿は兵を返さず決戦を決意為された。それも今しかないと考えた末の事。伊勢では松ヶ島が持ち堪え、津田七兵衛は戻っておりませぬ。今しかござらぬ。もしこの機会を失わば、修理亮殿は越前から動けませぬ。伊勢は明智の手に落ち、美濃に攻め入りましょう」
「西で羽柴筑前が動けば……」
「殿……羽柴殿は先の敗戦から立ち直っておりませぬ。時間が必要にございます。その間に日向守は美濃を切り取るは必定。そうなっては今は従っておる美濃衆の去就もどうなるかわかりませぬ。此処で退けば織田家は立ち直れませぬ。覚悟を決めなされ……
勝を得れば、織田家の後継ぎは三七殿……誰もが認めましょう」
「宿老達は皆、わしを跡目と認めると?」
「当然でござる。誰が異議を唱えましょうや……我等が全力でご後見仕る。
三七殿は総大将として胸を張りなされ……上様の後継として」
「わかった。五郎左殿……良しなに頼む」
こうして、長秀は信孝を宥めた。だが、先程の軍議の様子から、美濃衆は期待できそうもない……下手をすれば懈怠されるか……長秀はそう腹を括り、来るべき決戦のシナリオを上書きする決意をしたのだった。




