143話 伊勢の戦雲
天正十年七月九日夕刻
織田三十郎信包は長島城に到着した。五百ばかりの兵を引き連れ一目散に駆けたのである。信包は自らの失策を悔いていた。そして何としても松ケ島に後詰せねばならいと心に誓ってもいたのである。
「三十郎殿……よくぞご無事で……我等、後詰の準備をしていったところにござるが、思った程兵が集まらず出陣が遅れておりまする。申し訳ござらぬ」
一益は疲労困憊している信包を見かね、申し訳なさそうに応えた。
「三介殿は?」
「もう来られるはず……三十郎殿?三介殿は今、気持ちが沈んでおられる。ご不快かも知れませぬが、冷静に諭して下され」
「左近将監殿……木造左中将が討ち死にした。わしの失策でな……
松ケ島には津川や、木造左衛門尉もおって後詰を待っておる。
悠長なことは言っておれぬのじゃ。一刻も早く出陣すべきぞ」
「百も承知にござるが、殊の外兵の集まりが悪く、三介殿が意気消沈しておられる。
尾張衆の戦意は低いと言わざるを得ませぬ」
「兵の多寡はこの際問題ではない。籠城しておる者共を勇気付けてやらねば、織田家の威光は地に落ちようぞ?」
「尾張の水野殿には遣いを出しておりまする。今しばらく……」
そのような会話が為されていた時、相次いで注進が入った。
一益は席を外し、そしてすぐに信包の元に戻った。
「三十郎殿……今報告が入り申した。ひとつは朗報、今一つは悲報にござる」
「伊賀が切り取られたか?」
「如何にも……筒井勢が伊賀に攻め入り、ほとんどの城が為すすべなく開城したと」
「で、朗報とは?」
「水野殿始め、尾張衆が明日には此方に集結すると……」
「三介は出陣を渋ったりはすまいな?」
「その場合は何としても説き伏せねばなりませぬ。ですが、一万を超える兵が集まれば三介殿も気を取り直されるでしょう」
そして、織田三介信雄を交えての評定となった。
「三介殿……松ケ島に兵を集め、敵の攻勢を支える様命じてきた。
一刻も早く後詰せねばならぬ。総大将として励んで下され」
信包は機嫌を取るようにまずは切り出した。
「明日には尾張衆も集まりましょう。一万を超えまする……
明智方は早々に近江に戻りたいはず。野戦にて決着を付けましょうぞ」
一益もそう追従した。
「叔父上……敵の数は如何ほどでござりましょうや?」
「さて……松ケ島を囲む兵を割いたとして出てくるのは一万強であろうか?
兵力は互角であろうな?だが、敵は急いで近江に戻りたいはず。
状況を考えれば我らが有利かもしれぬ。織田家連枝として堂々と出陣なされませ」
「左近将監殿?伊賀が切り取られたとあらば、筒井勢が伊勢に討ち入れるのではないか?そうなれば不利は否めぬ。我らが出陣すれば戦わずして明智勢は引かぬか?中伊勢に陣を張り、睨みを効かせば事足りるであろう?」
「三介殿?それでは松ケ島の後詰にはならぬ。伊勢国内を明智勢に荒らされて何もせぬでは笑い者じゃ。一戦して敵を討ち払えば三介殿の立場も良くなろう?」
「しかし叔父上……万一後れを取れば後がないではないか?」
「後が無いのは明智とて同じ。追い詰められておるのは明智方の方じゃ。
我等は足止めすれば良い。だが、消極策過ぎては後詰の意味がない」
「左様にござる。急進して相対すれば敵も戦わざるを得ませぬ。
我等はそこで持久戦をするなり選択肢は多いと心得まする」
「わかった。出陣しようではないか……しかし、最後まで状況は見極める。
無理に此方から仕掛けて要らぬ犠牲を出す必要はあるまい?」
「三介殿……犠牲を覚悟で戦うべき時もある。今がその時じゃ……
我らが敵の兵力を削げば、近江方面も有利になろう。
心配せずとも良い。わしが三介殿の本陣を守ろうではないか。
先鋒は左近将監殿に任せれば、敵も難儀するであろう?」
「不肖、某に指揮をお任せあれ。
万の軍勢があれば戦略を描いて御覧に入れましょうぞ」
一益は殊更強気の発言で信雄を鼓舞しようとした。
しかし、現実的には尾張衆は頼りにならないと諦めている。
兎に角出陣し、敵との混戦に持ち込むしか勝機は無い……そう決めていた。
一方、神速の勢いで伊賀の諸城を攻め落とした島左近清興は、すぐに出陣しようとしていた。予想していた事ではあったが各城には常駐する兵も少なく、さしたる戦闘も行われることは無かった。初戦において圧倒的な力を見せつけたため、残りの城から兵が逃げ去ったことも幸いであった。
左近は順慶より伊賀国内に留まるよう命じられていたが、無視した。
そして、順慶に対する使者に命じた。
「殿には、日向守殿、七兵衛殿より火急の援軍要請があった故すぐに出陣致すと伝えよ。また伊賀の各城を受け取られたしと……わしが援軍に赴く事こそ、筒井家への忠義であると」
そして、三千の兵を纏めるや出陣した。七月九日の夜も更けた頃である。
左近は兵達の前で語った。
「皆の者……伊賀の諸城を攻略できたは皆のおかげじゃ。礼を申す……
だが、時節は切迫しておる。近江、伊勢には織田軍、柴田軍が攻め入り、伊勢に居る明智軍は一刻も早く近江に戻らねばならぬ。津田七兵衛殿からも援軍の要請があった。
我らが天下分け目の戦の鍵を握っておるのじゃ。
此処で手柄を立てれば、日向守殿の覚えも目出度く、必ず報いてくれよう。
今しばらく、わしに力を貸してほしい」
左近はその性格から配下の信望も厚かった。伊賀では大掛かりな戦もなかったため、力は漲っていた。そこに恩賞をチラつかされたため、兵達もその気になっていた。
そして、真夜中にも勇んで出陣したのである。
明けて七月十日である。
早朝から明智軍の元には次々と注進が入ってきた。
長島方面からは、尾張衆が長島城に集結し、早晩、後詰のため出陣するであろう事。また、島左近からは伊賀より三千を引き連れ、急ぎ伊勢に向かう事。松ケ島の先に出した物見からは、志摩水軍が大挙して松ケ島に向かっている事などである。
そして、近江には織田軍、柴田軍二万五千が攻め入ったと……
それらの情報を踏まえて軍議がなされたのだった。
「さて、役者が出そろったのぉ……皆、忌憚なく考えを言うて欲しい」
津田七兵衛がそう切り出した。
「七兵衛殿のお考えは?」
明智左馬助秀満が問いかける。
「わしの考えは定まっておる。志摩水軍が来る以上は松ケ島には容易に近づけぬ。この場の野戦陣地に留まるしか無かろう。城には補給されようが、手出しは出来ぬ。
よって、わしが松ケ島からは出て来れぬようにこの場を死守致そう。
左馬助殿はその間に三介殿と決着を付け、勝を得れば義父殿の元へ……
長宗我部水軍が来れば、志摩水軍は退散しよう?」
「某も考えは同じにござれば……七兵衛殿、お頼み申す」
「うむ、では我が軍から土橋殿の二千は元通り左馬助殿に合流して頂きたい。伊賀からの左近殿も其方に合流すれば有利であろう。松ケ島の兵は四千じゃ。出て来ても負けはせぬ。さらに先の事であるが、三介殿を打ち破る事能わば、左近殿の大和衆は此方の囲みに加わって貰い、一気に松ケ島を陥してみせようぞ」
「皆の者は異見はないか?」
「異議ござらぬ……承知……」
皆が口々にそう唱えた。
俺も予想通りであり、何も意見することなく軍議は終わったのだ。
そして、俺は秀満を総大将とする軍勢一万と共に伊勢を北上する事となった。
俺にとっては二度目となる野戦である。だが、羽柴軍と戦う時よりも安堵感があった。あの時に比べれば、此度の戦いは有利なような気がしていた。それよりも近江の情勢が気掛かりであり、一刻も早く父の元へ駆けつけたかったのである。




