140話 信包窮す
天正十年七月九日に日付は変わっている。津田七兵衛の軍勢へ夜襲を仕掛けた木造左衛門尉長政は安濃津城へ急行した。木造城は放棄し、明け方には火を放つように配下に命じ、事の顛末と今後の策を進言するために、織田三十郎信包の元に向かったのである。
真夜中にも関わらず、信包は長政を迎え入れた。
戸木城が玉砕して落城した事はすでに伝わっている。
「おぉ……左衛門尉……無事で何よりじゃ。親父殿には気の毒な事をした。
許せ……」
「我が父よりの書状にござる。お改めを……」
「……」
書状を読みながら、信包は涙を溢した。
「左衛門尉……すまぬ。左中将殿はわしの失策にも文句を言わず従ってくれた。わしが逡巡せず、献策に従って居れば左中将殿を死なせずに済んだ。許してくれ……」
「殿……勿体なきお言葉。我が父も浮かばれましょう。ですが今後は如何様に処されるおつもりでござりますか?某は今からでも遅くはないと存じまするが」
「うむ。明日にはこの城は明智軍に囲まれような。上野城からの軍勢と合わされば二万を超えよう。持ち堪えられぬかもしれぬな……
わしは意を決した。この城を放棄する」
「承知いたしました。松ケ島に籠城するという事ですな?」
「いや……松ケ島に籠城したとて、三介殿や滝川殿の援軍が遅れれば結果は同じであろう?わしは三介の尻を叩いてまいる。あのうつけは捨て置いては動かぬやも知れぬでな?
滝川殿も苦労があろう。わしが直々に出向き、無理やりでも軍勢を率いて来る。
左衛門尉は、すまぬが二千を率いて、松ケ島の津川の元に合流してくれぬか?
わしは五百を率い、夜陰に紛れて脱出し、長島に向かう。
志摩水軍も、おっつけ来援しよう?それまで松ケ島を支えてくれ」
「しかし殿……そのような寡兵では危険ではありませぬか?」
「承知の上よ……かえって目立たぬわ。少しでも多くを松ケ島に連れて行って貰いたい。わしの過ちで家臣を死なせてしもうた。わしに万一の事があれば、今後は好きに身を処してくれ。木造の家の事を第一に考えるのじゃ……良いな?」
「何を申される?某、最後まで殿に従いますぞ?」
「だから万一の場合じゃ。わしも此処で終わるつもりなどない。
此度の戦は、援軍が間に合うかどうかがすべてじゃ。
いや、間に合ってもその後の戦で勝を得るかどうかにかかっておる。
わしも死なぬぞ?日向守に一矢報いるまではな?
さあ、急ぎ支度するのじゃ。わしもすぐに出立する。
口惜しいが、この城には火を放って脱出してくれ。
また会おうぞ……」
こうして三十郎信包は安濃津城を放棄し、戦略を変更した。自身は夜陰に紛れて少数の騎馬隊と共に長島城に向けて逃れたのである。
七月九日早暁、俺は上野城から安濃津城へ出陣しようとしていた。しかし物見からの報告で、安濃津城、木造城が炎上し、放棄されたことを知らされた。
「若殿……すでに三十郎殿の軍勢はおらず、もぬけの殻ようにございます。
城を放棄し、松ケ島に向かったものと……」
源七がそう告げた。
「各個撃破を嫌い、戦力の集中を謀ったという事だな?」
「わかった。左馬助殿と協議して参る」
こうして、俺は秀満の元に伺候した。そして内容を告げたのだった。
「成程の……確かに四千程で松ケ島に籠られては厄介じゃな。
我が方は二万二千……どうするか……
三介殿が進軍して来れば挟み撃ちに合おう。それを見越して動かねばならぬが、方策は一つしかない。すぐに七兵衛殿と合流し、松ケ島に向かう。そして、三介殿が南下して来れば、一気に野戦にて決着を付ける。そこで勝を得れば、すぐに近江に取って返す」
「心得ました。すぐに七兵衛殿に早馬を出しまする。恐らく七兵衛殿のお考えも同じでございましょう」
「うむ……頼む。それと、万鉄斎殿にも織田軍を警戒するよう伝えよ。
苦労をかけるが、何としても足止めしてくれるよう伝えるのじゃ」
「ははっ……」
こうして俺は慌ただしく動く事となったのだ。敵も路線変更した以上は此方もその対策を考えねばならないが、選択肢は少ない。どうやら志摩水軍の動きと、それに対応する長宗我部水軍の動きが鍵になりそうな雲行きである。それに伊賀からの筒井軍の来援、近江の状況……すべての事象が複雑に絡み合って戦局を構成しているのだ。
一方、津田七兵衛信澄も同じく木造城の炎上を確認し、十五郎からの早馬で安濃津城が放棄された事を知らされた。
「我等は先に松ケ島に向けて進軍致す。左馬助殿には周辺の枝城の状況が確認でき次第我等に合流されたしと伝えよ。それと三介殿の援軍の状況はわからぬか?」
「はっ……未だ姿を現しませぬが、遠からず此方に攻め入るものと……」
「承知した。与三郎?伊賀に早馬を出し、左近殿に伊賀を平定でき次第、伊勢に討ち入れて貰いたいと伝えよ。野戦の可能性が濃厚じゃ。できるだけ兵力を増強したい。それと、松ケ島よりさらに進み海上を見張らせるのじゃ。志摩水軍の動向を見極めよ」
「承知いたしました。すぐに手配いたします」
「うむ……ならば、我等も松ケ島に向かう。海側以外をまずは距離を置いて囲み、野戦陣地を築くのじゃ。急げ……」
こうして、七兵衛は全軍一万三千を伊勢松ケ島城に向けたのである。
また、秀満軍も少し遅れて上野城から海沿いを松ケ島に向けて全軍で南下した。枢要な城である安濃津城も焼かれたために兵を駐屯させる事はなかった。
「与右衛門……この前はすまなかった。其方の言う通りであった。許せ……」
俺は徐に藤堂与右衛門高虎に話しかけた。
「若殿はまだお若い。これから学んでゆかれるお立場……
某は正直に自らを省みられる若殿が好きでございます」
「そうか……これからも遠慮なく異見してくれ。頼りにしておる」
「若……やけに与右衛門殿には素直ですな?」
源七が冗談っぽく語った。
「いや……わしは恥ずかしいのじゃ。過信しておったと思う。
それより源七?明智忍軍の組織化はどうじゃ?甲賀衆から召抱えできるか?」
「隠れ里の頭にも聞き合せましたが、今の戦の動向次第かと。
申し上げにくい事ですが、大殿が前右府殿を生害せしめた事実は動きませぬ。
時間が必要でございましょう」
「やはりそうよな?それに徳川殿との繋がりも無視できぬか?」
「それもございましょう。特に多羅尾殿とは昵懇のはず。
甲賀衆の大立者なれば、その動向を皆が注視しておる様子」
「そうか……」
「兎に角、今は目先の戦略に目を向けましょうぞ。
此処で勝てねば、すべてが瓦解いたしまする」
「わかった。源七、与右衛門ともわしに力を貸してくれ」
こうして俺は秀満の軍勢八千と共に進軍した。そして夕刻には松ケ島城を囲んだのである。




