123話 家康の思惑
天正十年六月十四日
時系列は少し遡る。
榊原小平太康政は、三千の兵を引き連れて三河刈谷城まで進軍した。この城は水野藤十郎忠重の城である。忠重は本能寺の変の際、三位中将信忠と共に二条城にあったが、脱出して無事逃げ帰っていた。忠重はこの変事において微妙な立場に立たされている。形式上は織田家の家臣であるが、家康の家臣であった事もあり、また姉の於大の方は家康の生母でもあるという複雑な事情が絡んでいたのである。
康政は当然であるが、城の門前まで来て使者を送り、忠重との会談を求めたのだった。忠重としても去就を悩んでいたこともあり康政と談合するに至ったのである。
「水野様……よくぞご無事で……我が殿も案じておられたのです。
前右府様の不慮のご生害……今後の織田家は……日ノ本はどうなるのか?
我が殿は同盟国たる織田家の事……ずっと気にかけておられまする。
織田の領内では一揆など、治安を乱す輩も数多おりましょう。
某も殿の命にて取り急ぎ軍を率いてきた次第……
聞くところによりますれば、三法師君が清州におわすとか……」
康政は言葉を選びながら、忠重を覗った。
「小平太殿……三河守殿も襲われたと聞くが、無事で何より。
漏れ聞くところでは、数多の家臣が討ち死になされたとか……」
忠重も同様に当たり障りない内容で応じた。
「我等はあの時、堺から京へ向かっておりましたが、変の報を聞くに及び伊賀越えで逃げる算段をしておりました。しかし河内にて明智の忍び衆に襲われましてござる。酒井殿、石川殿始め数多の家臣が落命致しました……某は幸いにてこの通り、軽い手傷で済みましたが……」
そう言って康政は失った左手の指を見せたのだった。
「なれば今後は小平太殿の働きが肝要でござるな?
三河守殿のお考えは如何様なものですかな?」
「未だ定まってはおりませぬ。
当家は主だった家臣が動ける状態ではありませぬ故……
ですが、何もせぬとういう訳には参りませぬ。
前右府殿が身罷られたからには、日ノ本の勢力図が大きく変わりましょう。
それよりも、織田家がどうなるのか?
まずは後継者を定め、仇討ちせねばなりますまい。
ですが……織田家にその力量のあるや無や……」
康政は未だ明確な意図は告げない。
「小平太殿……腹の探り合いも胃にもたれるの……
三河守殿は某に何をお求めかな?
あくまで織田家に対して義理立てなさるおつもりかな?」
「さて……某は織田家の旧領が乱れるであろうから、取敢えず軍を向けよと言われたまで。願わくば尾張への道筋を開けて頂ければと……無論、力をお貸し願えればこれに過ぎたるはありませぬが……」
「小平太殿……尾張へ軍を乗り入れるという事は、尾張国衆や織田家が如何に思うのか……それが重大な関心事ではないかの?少なくとも某ならば、三河守殿の返り忠かと考えるやも知れぬが……」
「そのような気は毛頭ござらぬ。ですが、今の状況で織田家は立ち行くのでござろうか?ましてや主だった宿老の方々は動けぬでありましょうし、三法師君も身辺がご不安であられましょう?」
康政はあくまで体裁を繕う。
「小平太殿……本音を語って頂こうか?
某は三河守殿の叔父である。正直に申し上げるが……
何方を新たな柱として仰ぐか迷うておる。
いや……織田家の者に今後仕えるというのは気が進まぬ。
尾張や美濃の国衆などはそう考える輩も多いであろうな?
だが、表立って対立などはできまい?」
忠重がついには不穏な発言をするに至った。
「水野様は我が殿に与力して頂けると?いう事でござろうか?」
「それは今後の事であろうが、まずは策であるな……
某も軍勢を率い清州に出向きましょうぞ。
まずは玉を手に入れれば、あとは如何様にもなろう?
弥八郎殿ならば、さらに知恵をお持ちではないかの?」
「我等で三法師君を保護し擁立するという事でござろうか?」
「さて、其処までの口出しはできぬであろうよ……
だが、尾張に軍を進め、更に美濃まで睥睨する口実にはなろう?
それに、某が三河守殿と行動を共にすれば、尾張の国衆は雪崩を打って従うであろうの……考え得るのは其処までじゃ。その後は三河守殿のお考え次第……
勿論、織田旧臣達の動きも見てから行く道を考えるべきであろうが……」
忠重は自分の立場から考え得る方策を述べたのだった。
「御見それいたしました……さすがは水野様。
では、その旨すぐに岡崎の殿に伝えまする」
「それが宜しかろう……某も出陣の準備をする故、暫しこの城で休息されよ」
こうして、康政は家康の元へ早馬を差し向けたのだった。
六月十五日、岡崎城では徳川三河守家康が家臣たちと談合していた。
「弥八郎?小平太が早馬にて知らせてきおった。
叔父上が与力する腹積もりであるらしいの……
織田家に忠義立てする気はないようじゃ」
「そうでありましょうな……藤十郎殿が織田家に好意的である筋などありますまい。御兄弟は幾人もが織田家の為に命を落としておられまする。この期に及んでは勝馬に乗りたいと考えるやもしれませぬな」
本多弥八郎正信が答えた。
「未だ混沌としておるこの状況。何か策はあるか?」
「されば……三法師君を保護し、岐阜まで送り届けては如何でござりますか?
そして、我等は三法師様の馬前で働くと告げるのです」
「織田家の内紛を誘うと申すのか?」
「ご明察……恐れ入りまする。
そのような権限などない事を承知の上でそう告げるのです。
織田家中は益々まとまりを欠くでありましょう。
三七殿や三介殿が黙って従うとは思えませぬ。
そして、時間の経過と共に宿老達を巻き込んで諍い致しましょう。
尾張は労せずして手に入るのではありませぬか?
殿はあくまで筋を通す形になりまする」
「半蔵……織田家の状況を具に探らせよ。
我等の立ち位置は状況を見て決めねばならぬ。
それに甲信でも動きがあろう」
「ははっ……すでに探らせておりまする。
三七殿の後ろには丹羽殿が付きましょう。
すでに伊勢に帰還し逼塞しているようにござる。
ですが、そろそろ動きましょうな」
半蔵がそう答えた。
「では弥八郎……其方が同道して岐阜まで行くのじゃ。
半蔵も弥八郎の指示に従って状況把握にも努めよ。
わしの名代として、現場で判断し事を進めよ」
こうして、家康は織田家に介入すべく動き出したのである。
しかし、歴史はあまりの速さで変転している……




