119話 関東管領の意地
天正十年六月十一日
真田源三郎信幸は北条安房守氏邦と面会していた。
氏邦は信長生害の事実を知り、それを小田原に伝えるとともに、自身は上野侵攻の準備を行っていたのである。そこへ吉報を持って信幸が訪れたのであった。
「お初に御意を得ます。真田安房守が嫡子、真田源三郎信幸にござります」
信幸は卒なく挨拶し平伏した。氏邦が檄しやすい性格であると伝え聞いていたからである。上手く乗せて、短慮な攻撃を仕掛ける様、仕向ける意図も持っていたからだ。
「北条安房守である。真田殿も安房守……何かの縁であるかの?ハッハハハッ」
そう言って氏邦は笑った。
源三郎は氏邦が上機嫌であることに内心ホッとした。
「参上仕りましたのは、父安房守よりの使者としてでござります」
「聞こう……信長公が不慮のご生害により、上州の雲行きも怪しくなろう?
その事で、真田殿の身の振り方の相談でござるかの?」
氏邦は先回りしてそう問いかけた。
「ご明察、恐れ入りまする。北条左京大夫様は上州の滝川殿を攻める手筈でござりましょう?我が父は滝川殿に臣従しておりまするが、事ここに至っては身の振り方を考えねばなりませぬ」
「で、真田殿は何と?無論手土産がござろうな?」
「はい……されば、我が父は滝川様配下の武田旧臣を密かに抱き込んでおりまする。
つきましては、滝川様の軍令を黙殺いたします。その代償として不戦致した者に対しては本領安堵して頂きたく……」
源三郎は上目遣いに氏邦を伺った。
「そんな処であろうと思うたわ。だが、土産が足りぬのではないか?
わが北条に味方し、滝川殿に反旗を掲げて貰わねば、日和見の上州衆の事、容易に信用できぬやも知れぬな?」
氏邦は条件面でまずはそう吹っ掛けたのだった。
「それは御尤もにござりますが、父安房守もこの短期間ですべてを調略できた訳ではござりませぬ。中には真田は裏切り者と罵り、恨みを抱く武田旧臣も多くおりまする。甲州や、我が真田の領地においても、いつ武田旧臣の一揆が起こるやも知れませぬ。容易には動けぬのです。
此処は何卒ご理解頂けませぬか?」
さらに源三郎は説得を試みた。
「まあ道理ではある。つまり、真田殿と旧臣達が滝川殿に与力せぬとなれば、大幅に兵力が減じ、容易に上州を切り取れると?それで満足せよと……いう事かの?」
「某からはこれ以上は……ただ、北条様が大軍をもって進軍なされば、上手くすれば滝川様は恐れをなし、上州から兵を退かれるのではないかと……」
「成程の……そんな可愛げがあれば良いがの?
其方の父同様、滝川殿は一癖ある御仁じゃ……
まあ良いわ……その旨、我が殿に上申し、すぐに本隊を派遣してもらおうではないか。
安房守殿には、更に調略を行い、我が方に味方するよう動いて貰いたい。
その旨しかと伝えられよ。上州の仕置きも働き次第であるとな……」
氏邦はそう答えた。無論願っても無い事であったろうが、信長生害の事実は北条家にとってまたとない機会であり、余裕も感じられた。北条軍5万で進軍すれば、上州切り取りは容易であろうと予測したのである。
そして氏邦は鉢形衆五千を率い、先陣として出陣したのだった。
しかし、氏邦のこの動きよりも前に、滝川左近将監一益は動いていた。
配下の親族衆や一部の上州衆を率い、武蔵国に電光石火で進撃したのである。
北条氏邦配下の斎藤光透が守る、金窪城を急襲し落城させたのだった。
この動きに対し、氏邦は激怒した。
当初の戦略では、本隊の到着を待ち、大軍で進行する予定を単独で打ち掛かったのである。
六月十三日、金窪原において滝川勢と北条勢は激突した。
しかし、一益の巧みな采配により北条勢は短時間で崩れ、撤退を余儀なくされたのであった。一益は深追いを避け、金窪城に籠城する気配を見せたのである。
「さて……初戦は勝を得たが、北条の本隊は5万と聞こえる。
正面から戦っても勝ち目はないの……」
一益は側近の倉賀野淡路守秀景に問いかけた。
「左様ですな……もう十分ではござりませぬか?」
「否……もう一撃加えねば、我等の撤退は安全とは言えぬ。
源次郎は如何に思うか?」
「さて……某にも妙案は浮かびませぬが……」
源次郎はそう答えたが、一益の目は笑みを浮かべている。
「殿……何やら策がおありですか?」
倉賀野淡路守秀景が問いかけた。
「うむ……この小城を捨てる」
一益は謎かけのように呟いた。
「はて……如何な事でござるか?」
秀景は目を白黒させた。
「この城に籠ると見せかけた後出陣し、大軍を前に恐れて逃げ出したと思わせる。
北条が城に入ったところで城丸ごと焼き尽くしてくれる。
幸い火薬は豊富にあるでな……源次郎?真田忍軍に頼めるか?
このような子供じみた奇策が大軍には見抜けぬであろうよ。
わしは軍勢を引き連れて整然と、ゆっくり撤退し、その後反転して一撃を加えてやるのじゃ。面白そうであろうが?そして一目散に退散じゃ。追っては来ぬであろうよ……」
「殿……それは大胆でござりますな?面白そうでござる。
早速、城の各所に仕掛けまする。地中に導火線を巡らせて、竹筒で覆っておれば、危険も然程無かろうかと……何やら心が弾んで参りました」
「ワッハッハッハ……源次郎?お前は面白い奴じゃ。
肝も据わっておる。長じれば安房守殿に劣らぬ名将になろうぞ」
こうして、滝川軍の策が決定した。一益の乾坤一擲の謀略である。
そして、手配りを進め、北条本隊が攻め来るのを待ち構えたのだった。
天正十年六月十五日
北条左京大夫氏直率いる軍勢5万が整然と金窪原に姿を現した。
まさに雲霞の如くという形容がふさわしい陣容である。
辺り一面に、『三つ鱗』の旗印がひしめいた。
一益はその様子を伺い、一軍を率いて攻めかかる気配を見せた。
しかし、素振りだけして崩れかかるように撤退を開始したのである。
「敵は……あれは何じゃ?戦わずして逃げると申すのか?」
北条左京大夫氏直はそう呟いた。
「新九郎よ……戦わずに撤退の決断をできるのが名将というものじゃ。
一万に満たぬ軍勢で我等に打ち掛かるなど、猪武者の所業ぞ」
今は家督を譲っている北条氏政がそう諭した。
「父上……勢いが肝要でござりましょう。早速上野へ向けて怒涛の進軍を致しましょうぞ。あのような小城、捨て置いても構わぬのではありませぬか?」
「慌てるでない。滝川殿は黙っておっても上野から退くはずじゃ。
窮鼠に追い詰めるでない」
「殿……御本城様の申す通りにござります。
我等は大軍故、堂々と、ゆるりと行軍すれば自ずと上州衆もひれ伏しましょう」
松田尾張守憲秀もそう同調した。
「新九郎……まずは金窪城を接収し、出方を見ようではないか?
未練がましく退かねば、殲滅してやればよい。
おとなしく退けば、勝手に上野は手に入るわ。
尾張守に五千を預ける故、滝川殿を警戒せよ。
取り越し苦労とは思うが、万が一のためじゃ。
その上で、明日にでも進軍すれば良い……」
こうして北条軍本隊は労することなく金窪城に入城したのだった。
松田尾張守憲秀の軍勢は撤退した滝川勢を追ったのである。




