117話 上州風雲
天正十年六月十日
上州岩櫃城では、真田安房守昌幸が事の推移を見守りながら、武田旧臣への調略に勤しんでいた。早晩、本能寺での変報が北条方へも伝わることが予測され、策を練り上げていた。
「源三郎……さて、どうするかの?武田旧臣は糾合できつつある。
滝川殿がどう対処されるかだが……
わしは軍事督促を上手く躱し、穏便に上州から退いてもらおうかと思うておる」
「父上……未来から知る歴史では、滝川殿は神流川において北条と決戦し、敗れて逃げ帰ることになりますが、武田旧臣への調略が進んだ現在では、北条方と大戦にはならぬやもしれませぬな」
「しかし、北条が無傷で勢力を広げるのも痛し痒しじゃ」
昌幸はこう言って考え込んだ。
「果たして滝川殿は寡兵だからといって戦わずに逃げ帰りましょうや?」
「うむ……そこが読めぬ」
「何か良い方策はありますまいか?」
しばらく沈黙が支配した。
この場にいる源三郎信幸、源次郎信繁、横谷左近も妙案を見いだせずにいる。
そして、昌幸が口を開いた。
「源三郎……北条安房守殿へ遣いしてくれぬか?」
「はい。ですが何か策がおありですか?」
源三郎は問いかけた。
「わしが武田旧臣を手懐けた故、滝川殿へは与力せぬと伝えよ。その上で、我等を含め、滝川殿に与力せなんだ者の所領を安堵してほしいと伝えるのじゃ。但し寝返るのではなく、不戦に徹すると伝えるのじゃ。
北条は大軍を動員しよう?我らが与力せねば、滝川殿の軍勢は1万に満たぬはず。この話に乗るのではないか?」
「しかし、それが策にござりますか?
下手をすれば我が方と滝川殿との間で戦になりませぬか?」
「そこでじゃ……源次郎に滝川殿へも遣いしてもらう。
元々お前は人質であるからの?滝川殿の厚意で自由に動いておれただけの事。
そのまま付き従うが良い」
「父上……如何様な話で?某、未だ意図が読めませぬが……」
源次郎も当然ながらそう答えた。
「滝川殿にはこう伝えよ。我らにも北条方から内応の誘いが来たと……
そして、一部の武田旧臣が内応しそうな気配があるとな……
潜伏していた武田旧臣が、裏切り者である真田を攻める謀があるやもしれぬと。
わが真田は北条に対して寝返りはできぬが、謀反への備えの為、出陣はしないと応じたと告げるのじゃ。これにより、北条は大軍を動員するであろうが、大軍を頼みとして油断が生じる事は疑いないと……」
「某もまだ飲み込めませぬが……」
横谷左近も目を白黒させている。
「我等にとって最も好都合なのは、北条の出鼻を挫いて、侵攻の意図を鈍らせたうえで、滝川殿に退いてもらうのが最良の結果じゃ。滝川殿は寡兵であっても、北条が油断すると思えば一戦に及ぶやも知れぬ。それも奇襲を選択するであろうな。そうなれば、戦下手の北条の事……それなりの損害を被るであろう?しかし、結局は滝川殿は勝てず、撤兵する事になろうな……」
「果たして、そう上手く運びましょうか?」
「さて……上手く行けばよいがな。
もしそうなれば、わしは密かに滝川殿を助けるつもりじゃ。
護衛して織田方まで送り届ける。滝川殿には死んでもらっては困るでな……
源次郎からもそう説得するのじゃ」
「何故でござりますか?滝川殿は敵方の……それも有能な織田家の宿老ではありませぬか?何れ戦う相手なれば敵に塩を送ることになりませぬか?」
源三郎は不服の色を為し、詰め寄った。
「源三郎……お前はまだ若いな?よく考えてみよ……
滝川殿が織田家に戻れば、本当に織田家が強大化すると思うか?」
源三郎は、ハッとした顔つきになり、気づいた。
「父上……某の不明を恥じるばかりでございます」
「某は未だ理解できませぬが……」
源次郎信繁は首をかしげている。
「では聞くがよい。おそらく織田家は信長公を失い、茫然自失の状態であろう。
今はそうであるが、いずれ家中での後目を巡って対立するであろう?
そうなった場合、敵中には有力な者が多い方が良い。
お互いが味方に引き入れようと派閥争いを助長する故な」
昌幸はそう言って諭した。
「源次郎、わしが知る未来の歴史では、明智殿が敗れた後、羽柴殿と柴田殿が織田家中で権力争いをすることになる。そこで大きな戦になるのじゃ。今回は歴史が変わってはいるが、家中の争いの火種に利用できるという事かと思う。それが、明智殿にとって有利に働くであろうからな?
家中が纏まらねば、明智殿に対して攻勢にも出られぬ。
さすがは父上でござる……」
源三郎がそう補足説明したのだった。
「うむ。これは河尻殿にも当てはまるの?」
昌幸はそう謎かけをした。
「確かに……史実では三井殿等に殺害されておりますが、上手く甲斐から逃げ果せてくれれば重畳でございますな?父上はすでに対策しておられましょう?」
「如何にもじゃ……できるだけ事を穏便に運ぶ方が楽であるからの?
で……織田家の勢力を駆逐出来たら、甲斐武田の再興を宣言する。
まあ、不測の事態も考えられる故、臨機応変が重要であるがな……」
こうして、真田家の謀略が開始されたのだった。
源三郎は北条へ……そして源次郎は厩橋の滝川一益の元へ走った。
此処は上州厩橋城である。
信長生害の情報はすでに伝わり、一益は対応に追われていた。
早晩、北条方が攻め入ることを予測し、上州衆に対する軍役命令を発していたが、すぐに反応はなく、一益は苦慮していた。一益は隠し立てできないことを悟り、上州衆に信長生害を伝えるために呼ぶつもりであったのだが、武田旧臣は昌幸の調略を受けており、軍役を上手く懈怠するよう言い含められていたからであった。
「淡路守殿……軍役に応じる者はやはり少ないやもしれぬかの?」
「さて……殿は上様生害を隠し立てせず伝えるつもりであられたが、その知らせが先回りして上州衆の耳に入ったのではありますまいか?
特に真田安房守殿などは忍び衆を使い、多方面に目が効きまする。
お召しに応じない者共も武田旧臣が多ござる」
「その事は今更論じても始まらぬな……下手をすれば寝返りが出るやもしれぬか?」
「さて……安房守殿は策士ではありますが、今の時点でそうはなりますまい。
今は確実に攻め来るであろう北条の方が肝要かと……」
「申し上げます……真田安房守殿から使者が参りました
源次郎信繁殿にござる」
近侍がそう告げた。
「すぐに通せ……」
一益はそう答えると、源次郎信繁と相対した。
「殿……殿のご厚意で勝手をさせて頂きました。
源次郎、戻りましてございます。
父安房守から言伝と、某に殿にお供せよと……」
「よく戻ってくれた。して……安房守殿は何と?」
「はい。実は父安房守へも北条から誘いが来ておりまする。
殿を見限れと……また、真田の手の者の情報では、武田旧臣等の謀反の動き、また北条からの調略に乗り、一揆する気配もござります」
「ほう……して、源次郎殿がわざわざ此処に戻られたのはそれだけでは無かろう?」
「はい。父は北条に返答したようでござります。
滝川様には与力しないと。その上で武田旧臣の動きを警戒いたすと……」
「何じゃと?安房守殿は返り忠をなされるというのか?」
倉賀野淡路守秀景が激高しそうな勢いで叫んだ。
「否……暫く……なれば某が此処に居りましょうや?
父は北条方にこう告げました。
軍役を懈怠し、不戦を約束すると……そうなれば北条は大軍で攻め入りましょう。しかし北条勢は大軍故に油断を生じるでありましょうと。奇襲にて付け入る隙が生まれるであろうと。大軍と申しても北条は戦下手故、殿の軍略を以ってすれば、上手くすれば勝を得る事能うのではないかと……
どの道、真田は武田旧臣の謀反の火種を抱える以上、出陣したとて十分な兵を出せませぬ。それよりも殿は北条に一戦にて打撃を与え、織田の領国に帰還するを望まれるのではないかと。そうした場合、後背定かならぬ上州衆や武田旧臣の与力衆は足手まといであろうと。真田は万一、殿が織田領国へ戻る際には全力で与力申し上げると……申しておりました。織田領へ帰還する道筋の者等には多少顔も効きます故……某の命がその証でございます。某と真田忍軍が微力ながら影働きにてお供いたします」
源次郎は一気にそう語り、平伏した。
「安房守殿の申し様……相分かった。
さすがにわかって居られるようじゃ……
わしは北条に一撃を与え、織田領へ戻る方法を模索しておった。
この上は、与力衆を頼まず、わが直属軍のみで迎え討とうぞ」
「しかし殿……あまりに無謀ではありますまいか?
下手をすれば北条軍は5万を超えましょう。
我等集められても八千が限度にござる。勝てませぬ……」
淡路守秀景はそう答えた。
「まあ見ておれ……戦が兵の過多でないことを教えてやる。
最も持久戦になれば不利であるから、一瞬で攻勢をかけ、すぐに撤兵する」
そう言って、一益は不敵な笑みを浮かべた。
源次郎も内心不安であったが、織田家中随一の武将、滝川左近将監一益の軍略を見てみたい……という期待感に胸を膨らませた……




