109話 尼崎の戦い 伍
尼崎の戦いは一進一退の攻防を繰り広げていた。開戦からすでに二刻以上が経過している。真上にあった日輪は傾きつつあるが、未だ強い日差しを振りまいていた。しかし風が吹き渡り、辺り一帯に砂塵を吹き上げている。
北側の戦場では、池田勢の全面攻勢により消耗戦に突入して久しい。
池田恒興、元助父子は津田七兵衛と真正面から鬩ぎ合っていた。
しかし、その膠着状態が破られようとしていた……
「準備はできたようやな?よっし、では参るぞ。
手筈通り、敵の指揮官を狙撃する。慎重にな?」
津田杉之坊照算と土橋若太夫守重は、鉄砲上手を選りすぐり、狙撃隊を組織し、戦場に向かった。少し距離のある場所から、池田勢の武者や指揮官を狙い撃ちするつもりなのである。
「パパパァ~~ン」戦場に散発的に銃声が聞こえ始める。
必中とはいかないが、高確率で指揮官が狙撃され始めていた。
そして、初めて名のある武将が討ち死にした。
騎乗して指揮しているところを狙われたのだ。
「片桐半右衛門様、討ち死なされました」
激戦の渦中にあった恒興の元に注進が訪れた。
「相分かった……」
恒興はそう答えた。先程から散発的に響き渡る銃声に、狙撃であることを感じ取っていたからだ。ここに来て、恒興は長くは戦えないことを自覚しつつあった。
「各隊に伝えよ。雑賀根来衆は狙撃をしよる。警戒せよとな……」
遣い番にそう伝えたものの、このまま推移すれば支えきれなくなる。
時期を見て撤退せねば壊滅するやもしれぬ……恒興は考えていた。
一方、模様見していた中川瀬兵衛清秀はじっと息を殺し、動静を眺めていた。
各方面に物見を出し、状況把握に努めていたのだ。
「申し上げます……池田方、片桐殿が討ち死なされた由……
雑賀根来衆は鉄砲隊により指揮官を狙撃しておりまする」
「相分かった」清秀はそろそろ決断せねばならないと自覚していた。
「右衛門尉……池田勢の右翼を攻め立てる。
侍大将が討たれたとあっては支えきれまい。
これで池田殿の命運は尽きたようじゃ……戦国の世の習い……
致し方あるまい……」
清秀は嫡男の右衛門尉秀政にそう語り掛け手配りした。
池田勢の右側面に、突如銃声と歓声が沸き上がった。
戦線参加していなかった中川勢が突如攻め寄せたのである。
右翼を指揮していた片桐半右衛門が討ち死にしていたため指揮系統が乱れており、わずかな時間で片桐勢は壊乱した。そして池田勢の本隊右側面に殺到してきたのである。
「申し上げます……中川勢が攻め寄せて参ります。
片桐勢は打ち破られた模様……」
遣い番は動揺を隠せず、そう報告し俯いた。
「相分かった。伊木清兵衛にも引くよう伝えよ。
一斉に撤退すれば深追いはすまい。元助とわしで繰り引きする」
恒興は迷うことなくそう決断した。
片桐半右衛門の討ち死を聞いた時から予測していた事だった。
「父上……中川殿まで返り忠とは、我慢なりませぬ。
某、裏切り者に一矢報いたく……」
元助はそう言ったが、恒興は許さなかった。
「元助……これも戦国の習いじゃ。致し方あるまい……
わしが中川殿の立場でも、家を守るためにはそうするやも知れぬ。
恨むのは筋違いじゃ……
わしは十分武辺の程を示した。もう良いのじゃ……
この上は、我等の命脈を保つ事のみ考えようぞ……」
恒興はそう言って、若き嫡男元助を宥めた。
そして、引き鐘と共に池田勢は撤退を始めたのである。
池田勢の撤退は見事なものであった。兵力が半減しているとはいえ、さすがは恒興である。津田七兵衛信澄も付け入る隙を見つけられず、深追いを禁じた。
有岡城には未だ残存兵力がおり、逆撃を蒙る危険性もあったからだ。
こうして、津田勢対池田勢の戦闘は幕を下ろしたのである。
池田勢撤退の報は、羽柴筑前守秀吉も知るところとなった。
「官兵衛……無念じゃが、引けの合図をせよ。
捲土重来に賭けるしかあるまい。この上は一兵でも損なうわけには行かぬ」
秀吉の決断は早かった。池田勢が撤退した以上は、この戦の趨勢は決したも同然である。
「はい。致し方ござりますまい……某が殿致します故、お退き下さいます様……」
「うむ。官兵衛……必ず戻れよ?其方の代わりはおらぬ」
「有難きお言葉……では、お急ぎくだされ」
こうして、全軍撤退の命令が下されたのだった。
羽柴軍撤退の報を受け、明智軍全軍が奮い立った。手柄を上げる好機が訪れたことを意味したからである。しかし、光秀は無暗に追い討ちする事を禁じた。この戦いで明智軍も少なからず被害を蒙っている。下手に追って逆撃を受けては目も当てられない。光秀は慎重に敵の戦力を削ぐことに徹するよう伝えたのだった。弓鉄砲の飛び道具を中心に、撤退する羽柴軍に対し攻撃したのである。
「無念じゃな……しかし、光秀の本陣までは届かなかったであろう……
この上は、一兵でも多く逃がさねばならぬ」
羽柴小一郎秀長はそう語った。
「殿、某が殿致しましょう。殿は何としても生き延びねばなりませぬ」
藤堂与右衛門高虎が申し出た。
「相分かった。各陣大将にその旨伝えよ。百名程預ける……
が、しかし、無駄死にするでないぞ?
其方は十分働いた。撤退が成功したなら生き延びる道を考えよ。
大名になる道は、わしの元でなくとも叶えられよう?」
「勿体なきお言葉……感謝に耐えませぬ。ではお急ぎくだされ」
こうして、藤堂高虎は殿部隊を率い、撤退を援護した。
過去に経緯があったのだ。藤堂高虎は何度も主君を変えて出世したことで有名である。秀長に仕える際にも、常に自身の夢を語っていたのだ。そんな高虎を秀長は気に入り、目をかけていたのである。高虎に生きよと命じたのは秀長の温情でもあり、本音でもあった。
「さらばじゃ……」秀長はそう微笑むと、馬廻りと共に駆けだした。
高虎は殿部隊を率い奮戦した。明智軍が積極的な追い討ちを戒めたこともあって、攻撃はそれ程苛烈ではなかった。短時間のうちに秀長軍は撤退を完了したのである。勿論、弓鉄砲により犠牲は出ていたが、千五百程は無事に引くことが出来たのだ。
そして、藤堂与右衛門高虎にも最後と時が迫っていた。殿軍は多くが討ち死にし、撤退の道も塞がれている。高虎は秀長の心遣いが嬉しかったが、この状況ではどうする事もできなかった。
「殿軍の将に申し伝える……武器を捨て降伏為されよ」
俺はそう大声で問いかけた。
独断であったが、藤堂高虎という武将を殺したくは無かった。未来知識で彼が何度も主君を変え、最後に大出世を遂げた武将であることを知っていた。しかし、実際に戦いその行動を見て、忠義に厚い、すばらしい勇将であると判断したからだ。
「藤堂与右衛門殿……某は明智十五郎光慶と申す。
先程、命拾いした若輩者でござる。
藤堂殿の戦振り……感服仕った。
この上の命の取り合いは詮無き事……生き延びられよ。
某が一命を賭して、助命をお約束致そう」
俺は更に語り掛けた。
「先程の若武者でござるか?日向守殿の縁者でござるのか?
某は羽柴小一郎殿に惚れておったのじゃ。この上の情けは無用にござる……」
高虎はそう答えた。
「藤堂殿……これからも日ノ本は戦の世になりまする。
此処で立身の志を捨てると申されるか?
何と情けない事を申される……
某は惟任日向守の嫡男にござる。決して悪いようには致さぬ。
どうか聞き届けて頂きたい」
俺は諦めず説得し続けた。
暫く沈黙が支配している。そして、高虎が答えた。
「某を使えるような器量がお在りか?
もし、その器量無しとわかれば、某は寝返るやも知れませぬぞ。
それでも宜しいか?」
「望むところでござる。某の器量を見分すればよろしかろう?」
こうして、藤堂与右衛門高虎は降伏したのである。
羽柴秀吉の本隊と中軍も速やかに撤退行動に移っていた。
明智軍の先鋒他も追討ちしようと試みたが、無駄な努力であった。
黒田官兵衛が殿部隊を指揮し、上手く立ち回っていたからである。
斎藤内蔵助や島左近は悔しがったが、官兵衛の見事な指揮ぶりに、追い討ちを断念せざるを得なかった。一度は突撃を試みるも、強かに逆撃を蒙ったからである。そして、撤退していく羽柴軍を見送ったのだった。
光秀は胸を撫で下ろしていた。完勝という訳ではなかったが、羽柴軍の撤退は、光秀の畿内平定を意味するからである。
尼崎の戦場に、勝ち鬨が幾度も響き渡った。
やっと始まったばかりじゃ……今回は行幸を得たが、次も上手く行くとは限らぬ。だが、秀吉は当面動けぬであろう……更に、この勝ち戦で光秀は容易に負ける事は無くなったのだ。そう思うと張りつめていた気持ちが、幾分楽になっていくのを噛みしめていた。
尼崎の戦場では風が強くなってきていた。数多の命が消えたにもかかわらず、自然は容赦しない。雷鳴を伴い激しい雨が降り始めた。その雨は戦場に流れた血と埃を、容赦なく洗おうとしていた……




