102話 海王丸咆哮
天正十年六月八日
此処は播磨国、姫路城である。備中高松から神速で行軍した羽柴軍が続々と帰還してきていた。昼夜を問わずの強行軍である。しかし、兵の士気は衰えてはいなかった。ひとえに羽柴秀吉という総大将の器が兵の士気を保っていたと言っても過言ではない。
秀吉は蔵奉行を集め、戻ってきた兵たちに金銀や兵糧米の悉くを身分に応じ分け与えた。そして、翌九日早朝、全軍を前に演説した。
「皆の者……知っておる者も多いと思うが、上様は二日、逆臣明智光秀の謀反によりご生害あそばされた。卑怯にも明智は我らが畿内におらぬ時を見計らい、事に及んだものである。
そして、天下を我が物にせんと畿内を席捲しつつある。
しかし……わしは誓おう。逆賊に正義はなく、決して許されることはないと……
皆の者……どうか……どうかわしに命を預けてくれ……
そして、上様の仇を討ち、新しき織田家を、日ノ本を……我らの手で切り拓こうではないか……わしは元は百姓の出自じゃ。絶対に皆が笑い合える世を作ることを誓おう」
秀吉はそう締めくくった。
そして、全軍が身震いし、歓声は鯨波となって姫路城内に響き渡った。
「いざ……出陣~~」
秀吉は高らかに咆哮すると軍配を返したのである。
羽柴軍二万は堂々と、しかし足早に山陽道を東上した。
この日中に兵庫城まで進軍する予定である。拡幅整備されたとはいえ、二万の大軍である。長蛇の列をなし、軍勢は行軍した。さらに、次々と物見を放ちながら周辺の動静を探る。
その情報網にすぐに反応があった。海手からの注進である。
官兵衛はその情報を聞き、すぐに秀吉に報告した。
「殿……淡路から長宗我部が動いたようにござる。
100隻以上の艦艇が淡路より西に向かっておるとの事……」
「ほほう……策士がおるようじゃの?
つまり、姫路を攻める気配を見せかけると?」
秀吉はそう返答した。
「さすがは殿……そう思われます。
我等の兵力を分散させる策かと。彼奴等は多くても三千……
上陸したとて、姫路は落ちませぬ。
まあやって損はないという事でありましょう」
官兵衛もそう分析した。
「小才士めが……念のために姫路に遣いだけでも出して置け。
守りだけは怠りなくするようにとな……」
やはり、秀吉と官兵衛に対して策など通用はしなかったのだ。
羽柴軍は怒涛の勢いで突き進む。そして、昼頃には明石城の手前まで進軍していた。秀吉はここで小休止した後、兵庫城まで軍を進めるつもりである。
しかし、またもや物見からの知らせがあったのだ。それは明石城からの注進であった。
「官兵衛……またもや淡路から水軍が出撃してきたらしいの……
10隻程らしいが、見たことも無いような巨艦がおるそうじゃ。
如何する?」
「10隻でござりますか?しかし、どのような意図でござりましょうか?」
官兵衛は不穏な空気を感じていた。
「どうも腑に落ちぬ。明石に向かっておるのかの?」
「とりあえず警戒いたしましょう。しかし、明石に向かったところで上陸など致しますまい。考えられるとすれば艦砲射撃の威嚇くらいでしょうか?あまり意味があるとは思えませぬが……」
「時間は貴重じゃ。このまま足を止めることなく進軍致そうぞ」
秀吉はそう結論した。
一方、俺は弥三郎たち共に岩屋港を出撃した。羽柴軍の進軍に合わせて攻撃すべく、海王丸以下10隻の艦艇で出航したのである。そのうち5隻は普通の関船であるが、新造艦5隻は長射程の大筒を多数搭載している。勿論、榴弾ではないので効果が高いとは言えないが、見たことも無いであろう多数の砲による艦砲射撃による精神的効果も期待していた。
羽柴軍は足を止めることなく進軍する。そして、白昼堂々と明石城に入城を果たした。当然城に収容しきれない軍勢は周囲の街道沿いにて小休止していたのである。
「若殿……羽柴軍が明石城内に入ったようですな。一部の軍勢は街道沿いにて進軍を停止しておりまする。いよいよですな?」
池四朗左衛門が問いかけた。
「ご苦労……手筈通りにせよ。全速で接近し舷側を城に向け一斉射撃する。
秀吉は艦砲射撃を舐めておるであろうな?」
「左様ですな。痛快でござる……焼玉を撃ち尽くしてやりましょう」
「うむ。では参ろうぞ……」
秀吉は明石城内にて、諸将を集めて休息しながら歓談していた。
そこへ、注進が飛び込んできたのである。
「申し上げますっ……長宗我部水軍が急速に此方に向かってきます。
大型の安宅船らしき艦船を先頭に10隻程にて。
如何いたしましょう?」
「艦砲射撃があるやもしれませぬ。殿は安全な場所まで避難を……
もし万一城に接舷するようなことがあれば、大鉄砲にて応戦せよ。
そう長い時間とは思われぬ……」
官兵衛はそう言った。しかし……
「ドドドドドオォオ~~~ン」
官兵衛の言葉は轟音に掻き消されたのである。
50門程の大筒による一斉射撃である。
「何事じゃ~~っ」
秀吉は叫んだが、城内に振動とともに、秀吉が居た場所から近いところにも砲弾が落下してきた。そして、その砲弾の熱で障子や畳が火を噴き、燃えだした。このような光景が城内の各所で起こったのである。そして焼玉が襲ったのは城内だけでなく、周囲に駐屯していた軍勢の頭上にも降り注いだ。
遮蔽物の無い場所では、炸裂弾でなくとも一定の効果があるのだ。
「ドドドドドオォオ~~~ン」一度目の砲撃から2分後、再びの轟音である。
城内は消火に大わらわである。しかし、城外にいた軍勢は恐慌状態に陥っていた。轟音に馬が嘶き、辺りに逃げ出そうとする。また運悪く砲撃を食らった兵は悲惨な状態に陥っている。
羽柴軍にとっては悪夢のような時間が始まっていた。砲撃は一定間隔で一斉に行われた。都合10回ほどの砲撃が行われ、やっとのことで静寂が訪れた……
城内も、また城外においても血と炎と埃のモザイク模様が出現していた。
「官兵衛……敵は去ったか?何なのじゃあれは……
被害はわからぬか?」
秀吉は、震えながら問いかけた。官兵衛も唖然とした表情である。
「わかりませぬ。九鬼水軍の鉄張船でもあれ程の攻撃は……
兎に角、負傷者の手当てを致します」
官兵衛でもそう答えるのがやっとである。
そして、そこに注進が入った。
「申し上げます。前野将右衛門様、御討ち死に……」
前野長康はこの時運悪く、城外に兵の手配りをしており被弾したものだった。
「何じゃと?」
秀吉はそう言ったきり、黙りこくった。
そして、半刻後大凡の被害状況が伝えられたのである。
討ち死にした者150名程、負傷者は300名に近かった。
これは合戦においてではなく、一方的に艦砲射撃で打ちのめされたのである。
「官兵衛……被害は思ったほどではないが、兵の士気が落ちておろうな?」
秀吉は苦渋に満ちた表情で語った。
「はい。あのような攻撃を見せつけられると、足軽共が恐れましょう。
心理的な敗北感を軽視できませぬ。
ですが、此処はすぐにでも進軍すべきかと……
時間的猶予を与えず、一戦に及び、勝を得れば士気も戻りましょう。
何卒……」
官兵衛はそう答えた。
「うむ。しかし、全軍という訳にはいかぬな?
此処に負傷者と兵三千を留め置く。小六どんに残ってもらう。
姫路に向かった水軍が此処に攻めてこぬとも限らぬ」
「そうですな……三千で蜂須賀殿が守れば安心かと……」
こうして、羽柴軍は一部の兵を明石に残し、一万六千の軍勢を兵庫城に向けたのであった。




