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 4-3 答え

もやが晴れるように、意識が回復すると。

柴崎は病室にいた。

暖色の間接照明にクリーム色の壁、天井、四隅(しすみ)が浮き上がっている。

病院らしくはないが。

彼の手首につながれた点滴。

カテーテル。

木製の病院用ベッドの重厚感、

彼が背を預ける

斜めに上がった背もたれを覆うシーツの清潔感

独特に鼻の奥をさす消毒液の臭いが。

そこが病室であると、彼に認識させた。


壁のほとんどを占める窓の外には。

大地の果てまで続く、消し炭のような闇と、闇にくすぶるように輝き散らばる無数の灯り。

赤、白、黄、

赤はテールランプ

白は街燈やビル


― 黄色は何だろうか。 ―


柴崎は漠然と思う。

と。


「起き、たんですね。」

と声がかかった。

聴きなれている声。

いつも通り、やや上ずっている。

どもりがちの。

声。


声の質は間違えようがない。

が、何かが決定的に違った。


「加瀬、なのか?」


声の方向。

柴崎の横たわる、病院用ベッドの足のしきいから先の隅に。

丸い体を不格好に丸めて。

加瀬は座っていた。


「はい。

そうですよ。

あなたの、長年の、コンマスの、加瀬です。」


「そう、か。

俺は、倒れた、のか。」


「はい。

演目が終わって、お客さんに挨拶する時に、お倒れになりました。」


「そう、か。

なあ。」


「はい。」


「お前は、本当に、加瀬なのか?」


柴崎の問いに、加瀬と自らを名乗る男は沈黙する。


「…私は、加瀬ですよ。

貴方に全部、奪われた、奪われてきた、加瀬です。

僕の志望は指揮者でした。

貴方がいなければ、今日のヌーベルバーグだって

僕が振ってました。

貴方に振り回される人生だっって、歩まずにすみました。

貴方に奪われまし…た。」


志望は指揮者でした、まで、声の調子は汽車が山を登るように上がり

ヌーベルバーグで頂点を迎えて、

貴方に奪われまし…た、で完結する前には、その声は消え入りそうだった。

怨念。

暗い情念とも言えそうなほど、長い期間

熟成され続けた、怨念。

に、柴崎は一つ、納得がいく。


「ああ。

…そう、か。

俺の拉致をあの大男に頼んだのは、お前、か。」


「はい。」


「そう、か。

まあ、俺もヴァイオリン志望だったし、

お前がいなけりゃコンマスやってたよ。

ああ。違うか。

どのみち、真凛に、敵わなかったしな。」


柴崎は淡々といい、

加瀬は唐突に立ち上がる。


「ちが、う、だろう…・!

そうじゃない!

そうじゃないんだ!

あんたが僕から奪った、奪い続けたのは、

僕、の、女房だ…!」


「お前と真凛の間に夫婦生活は成り立たなかった。

俺はあいつが好きだったが、埋めてたのはスキマだ。

按摩器(あんまき)と本質的に変わらないよ。

その証拠に、あいつは俺と事が終わると、すぐお前のとこに向かってただろう。

お前が一番分かっている、ことだ。」


「ちが、う…!

ちがう!

あんたがいなければ、僕は真凛とちゃんと愛しあえていた!」


「仮定法の話だ。」


「違う。

仮にそうだとしても。

あんたは。

真凛の命を奪った…!」


柴崎の心臓が震えた。

彼の脳裏に、

美しく激高(げきこう)する真凛

白目を剥いて仰向けに倒れる真凛。

のしかかる看護義務。

後ろで閉じた扉の重い質感。


が、鮮やかに、しかしところどころ切れ切れに

(よみがえ)る。


「そう、だな。

そうだ、よ。

あれは真凛の代わりに、綾瀬をソリストに据える

って、話をしたんだ。

デリケートな話だからな。

落ち着いて話す必要があった。」


「あんたが落ち着きたかっただけだろう。

ずっと真凛を恐れてきた。

横恋慕しながら、僕らに割り込みながら、怖がってきた。

そして、部屋で彼女が倒れるような話をして、

そのまま見捨てた…・!」


加瀬の声には嗚咽が混じる。

柴崎のは肺を憂鬱が浸す。


「そうだ、な。

俺は疲れていた。

どこまでも、美の世界には届かない。

俺は老いる。

真凛は高血圧を(わずら)う。

健康なのはメタボ体型の加瀬、お前だけだ。

あの日、あの部屋で、あいつが脳梗塞をやったのは分かった。

フロントに電話をすることはできた。

だが。

俺はできなかった。

ずっと、美しかった真凛が、麻痺を抱える。

もう、あいつじゃない。

あいつと夢見れた世界には、もう届かな…!」


…柴崎が言い終わる前に、彼の胸に電撃が走った。

体全体が痙攣(けいれん)する。

切りそろえられた口ひげの下の口元が大きく開き

並びの良い歯の下をくぐって

舌が大きく突き出す。

眼玉が飛び出そうだ。

舞台で感じるようなホワイトアウトはない。

代わりに神経網に沿ってまんべんなく、苦痛と衝撃が走る。


何が起きたのか、彼は分からなかった。

かすみかける視野の中、加瀬を探す。

相変わらず、部屋の隅に仁王立ちをしている。

その右手には、小さなリモコンのような灰色の何か。

おそらくスイッチ。

が握られている。

その手は震えている。

加瀬の皮下脂肪に埋もれた顎も、小刻みに

がくがくと震えている。

つぶらな瞳は赤く血走り

目元は潤んでいる。


「違う、だろう?

麻痺を抱えた、真凛と。

僕と、あんたで。

三人で、苦しめば、良かった…!

三人で、探せば、よかった。

妻がどうだろうと。

僕と、あんたと、あいつの、三人でやってきたんだ。

それをあんたは、手放して、

救急車も呼ばず、見捨てた・・・!

見捨てたんだ!」


加瀬の言葉の最後は絶叫に近い。

柴崎の胃を痛みと憂鬱が満たす。


「そうだな。

俺は疲れてい…!」


柴崎の骨全体に電撃が走る。

どうやら電極が体に埋め込まれ

加瀬の指に合わせてボルトが走るらしい。


拷問。


の、主は、本人が逆に拷問を受けているのかと思うほど

苦渋にその唇をかみしめて、

うっすらと血がにじんでいる姿が、

暖色の間接照明の中に浮かび上がっている。

激高。

激情。


「つ、か、れていた、じゃない!

あんたは、見捨てたんだ。

真凛を、見捨てたんだ!

俺たちを、見捨てたんだよ!」


柴崎は呼吸ができない。

ただ、病室のベッドの上でのたうち回る。

よだれがシーツに垂れる。

のを、右の手首でぬぐい。

彼は、病室の端に、不気味に立ちすくみ、

震え続ける卵のようなシルエットを見上げつつ、問う。


「…俺は、死ぬ、のか?

お前に、殺されるのか?」


シルエットは呼吸を整えて、おもむろに

首を傾げる。


「あんたは、どうなんだ?

柴崎さん。

真凛を殺しておいて

まだ、生きたいのか?」


その問いは。

柴崎を硬直させた。


― 俺は、生きたい、のか? ―



…彼は長く沈黙する。


卵のシルエットは彼の答えを待つ。

その姿は、(かえ)ることのできなかったアヒルの水子のようにも見える。


とても。

とても長い沈黙の末に。

柴崎は口を開く。


「…俺は、生きたい。

昨日までは、死にたかった。

けど、さ。

今日、初めて演奏で、届いたんだ。

先がある、事がわかった。

真凛には申し訳ない。

お前にも。

ただ、許されるならば。

お前と、綾瀬と。

音楽を。

美を。

まだ、あらわして、行きたい。

そこに、美はあった。

お前がいてくれた、から、美があったんだ。

加瀬…

俺は、生きたい…!」



その言葉の最後は、ほぼ彼の魂の叫びといって良く。

恐怖も、哀願もなく。

ただ、純粋に、


生きて、極めたい。


そういう、音楽家の叫びだった。


その叫びに、加瀬はよろめき。


「答えが、出たのですね。」


と。

入り口付近で柔らかい声がした。


いつの間にか。

いつからだろう?

全く気配はせず。


しかし。

ずっとそこに佇んでいた。

人影。


とても華奢だ。

間接照明に淡く浮かび上がる白のワンピース。

歩くたびにかすかに揺れる短く切りそろえられた黒髪。


― 楽屋に来た、係員。

ホールにも、いた。 ―


真っすぐ、柴崎の横たわるベッドに歩を進める。

近づいてくる。

その表情は穏やかで、その口角は柔らかく上がっている。


彼女は、柴崎の枕元のそばで止まって

加瀬に、言葉を投げかける。


「契約では。

この方が、


死にたい


と仰られたら、生かすように。


生きたい


と仰られたら、、命を摘んで差し上げるように。


とのことでした。

そうです、よね?」


…その言葉は。

それこそ、ミシュランで星を獲得するフレンチレストランの

店員がオーダーを確認するような響き。

とても柔らかく穏やかな

優雅さを響きに帯びている。


加瀬の皮脂で張った顔面全体が、苦渋に歪むのが見えた。

彼は、その苦渋の果てに

強く、重く。

沈黙のままに、首元に

マックのピエロの笑う口元のようなしわを作りつつ。

うなずき。


その、係員。

今はワンピースの女は

柔らかくうなずきを返してから

ベッドの上の柴崎に向き直る。


― 俺は、死ぬ…! ―


意識は身をよじり

腰をずらして後ずさり

ベットから転げ落ちて

床を、少しでも逃げて

這って、少しでも長く、生きたい。

助けを呼びたい。

看護師を。


意識は、そう動いている。

が、体は硬直して、動かない。


その女が、柴崎の頭上から注ぐ

口角の柔らかい微笑みに。

全身が固まる。


加瀬に助けを求めようと、病室の端に視線を投げると

彼は目を堅くつむり、歯噛みをして、うつむいている。


― 加瀬、この、野郎。

俺が殺される時にお前は呑気に ―


と、柴崎が思った瞬間


ふわっ


と。

彼の首に腕が巻かれたのを感じる。


女が、寝台に片膝を乗せて。

柴崎の首に腕を回して

その胸元に手繰(たぐ)り寄せ。


柔らかく、抱きしめて。


その抱擁(ほうよう)の柔らかさと、温かさ

彼女の鼓動を額に感じた

瞬間。


柴崎の意識は消失した。


それは、彼の生命の灯し火と共に。

穏やかに、(あさ)に眠るように。













































































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