4-2 極致
その境地にたどり着いた理由は、柴崎にも分からなかった。
例えば。
楽曲がグリーク・ペールギュントの魔笛だったり
魔の山のくだりに、あの夜の恐怖が彼の意識のふちに浮かび上がったり
朝、の楽曲に先ほどの楽屋の感覚を思い出したり
とか。
才能を溢れださせる綾瀬、対抗しがちな加瀬を
認めて
全体的な指揮で包んだり
とか。
それを可能にしたのは、焦りが抜けて感謝や、彼らに対する慈悲や尊敬だけが
残ったからだった、という。
今まで探し続けたが、ずっと見つからなかった関わり方ができたり
とか。
そういう色々な要因で。
柴崎は、その日。
その舞台、その演奏に。
音楽の神が顕現するのを感じた。
美の世界の臨在。
存在だけは感じて
細部までわかるにも関わらず、ありえないほど遠くにあった、それが。
実はすぐ近くにあって。
孤独も、葛藤も、旋律の美に飲み込まれていく。
柴崎は幸福を感じたし。
演目が終わった瞬間の静寂、洪水のような拍手、
頬を紅潮させる聴衆一人ひとりの興奮。
それは彼が慣れ親しんだものだったけれど。
それはわずかに違っていた。
批評家も。
審査員も。
聴衆も。
誰も目にしたことのない世界を。
彼らは感じていた。
それはとても不完全で、完成の極致の先にあった。
興奮には戸惑いが混じり。
柴崎は思う。
― それはそうだ。
モーツァルトを初めて聴いたウィーンの王族だって。
戸惑ったものさ。
今みたいに。
だが、分かるだろう?
美はそこにあるんだ。 ―
それは柴崎がずっと、
望み、追求し、すがりつこうとして
届かなかった世界でもあった。
― 届いた。
評価?
そんなものはどうでもいい。
俺は生まれた甲斐が…!? ―
聴衆に礼をしようと
背筋を張り
身をかがめようとした瞬間。
胸。
撃たれた部分に。
感電したような感覚が走った。
それは柴崎の全身を撃つ。
真っ白い衝撃に、彼の意識もホワイトアウトをする。
直前。
何が起こったのか分からずに、口元を両手で抑える淑女、眉をしかめる紳士たちの
端の通路前。
ホールの出口に続く影に。
一人の女性がたたずむのを、目の端にとらえる。
― …真凛?
いや。
あの、係員か。 ―
眼を見開く聴衆を傍目に。
彼女だけが、その口角を柔らかく上げて。
彼を見守っている。
柴崎は倒れながら、白く消え去る視界の中で、思う。
― 夜は。
あの夜は、終わっていなかった。 ―




