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4-1 指揮棒

意識が浮上する。

闇から。

いや、闇ではない。

舞台裏の厚いカーテン。

漆黒。


何かが起きていたのは分かっていた。

角膜も水晶体も網膜視神経も情報を伝えていた。

ただ、隔絶(かくぜつ)されていた。


ストレッチャー。

吸入器。

白色のライト。

護送。

etc

etc

e…。


柴崎が意識が浮上した時。

彼はタキシードに身を包み。

白亜の壁に掛けられた時計は15時を指していた。

見慣れた控え室の机があり。

鏡がある。

腰をかけている。


柴崎と同じく黒の正装に身を包み、あわただしく楽器の弦を

調整する団員達。

慌ただしい空気。

熱気の中。

加瀬も調律している。

綾瀬も、額の前で両手の指を組み合わせて祈るように瞼を閉じている。

白い肌に浮き出た鎖骨のラインが相変わらず美しい。

慣れ親しんだ光景。


…を、何か別の風景のように感じてしまう。

夢見心地が抜けない。


とても長い夢を見ていた気がする。

大男に胸を撃たれた。

その前に黒ずくめの男に耳たぶを画鋲で貫かれた。

酷い恐怖に満ちた暗黒の夜。

が、いつの間にか開けて。


気が付けば、彼はヌーベルバーグ音楽祭の会場の控室にいる。

電子時計の日付は音楽祭の当日。

リハーサルは済んだのだろうか?

記憶していた時間どおりなら

開演は間もなくだ。


机の上には指揮棒が

黒のビロードの布に包まれている。

産まれるのを待つ音楽の精霊のようにも見える。


ドアがノックされた。

白のスーツ姿の係員が顔を覗かせる。


ショートカットの黒髪。

30代か。

とても華奢だ。

黒目がちの一重まぶた。

細い目をさらに細くして、柔らかくほほ笑む。


「お時間です。

お願いいたします。」


団員達はわらわらと立ち上がり

控室の入り口へと向かう。


柴崎もつられて立ち上がろうとする

刹那。

景色が横に弧を描くように揺れ

思わずテーブルのへりにつかまる。


綾瀬が怪訝(けげん)な顔をして振り返るが

小さくうなずき、口元に微笑みを作って

先に行けとうながす。


綾瀬は心配そうにうなずきを返して、身を翻す。

肩のラインが美しい。

力強ささえ感じる。


その背中を遠くに眺めていると。

いつの間にか、係員が(かたわ)らに立っている。


「大丈夫ですか?

気分がお優れに・・・」

「いや、大丈夫だ。」

そう、自らに言い聞かせるようにして

テーブルのへりに重心を預けつつ

柴崎は立ち上がり、指揮棒の包みを胸に抱えて歩き出す。

通路に出る前に、ふと立ち止まり

係員を振り返る。


「…ここは、ヌーベルバーグ、だよ、な。」

「はい。

会場です。」

「…俺は。

なぜここにいれるのか。

分からない。」


係員は


きょとん


としてから、その頬を柔らかく緩める。


「私は、柴崎さんの演奏を楽しみにしています。

ずっと、お待ちしてきました。」


「…そう、か。

ありがとう。」


柴崎はその髭をわずかに揺らして微笑み、それから舞台袖に続く通路を歩むべく

その踵を返す。

足取りはしっかりしている。

が、浮遊感をかすかに感じる。



…舞台を被膜のように覆っていた厚い黒のカーテンが巻き上げられ。

観覧席に肩を寄せ合う聴衆の暗がりが視界に迫る。

団員たちが舞台上で調律している。

彼らの姿に、柴崎の中で何が回復する。


― そう。

おれはここで、生きてきた。

また ―


強く突き動かすものにすながされるまま

舞台の指揮壇に歩き出す。

ライトが柴崎を照らし出す。

それは新しい星

あるいは、砂漠の向こうで救世主の誕生を知らせるような

厳かな祝福に溢れた(きざ)しを

彼の胸に呼び起す。

浮遊感は取れない。

が、焦りは無かった。

あの暗い夜を抜けて、どういう経緯(いきさつ)か分からないが

再びここに立てている。


重鎮と言われるようになってから、

ずっと感じていた気負いや焦燥も感じなかった。

ただ、感謝しかない。

指揮棒をふれること。

加瀬、綾瀬、涙がにじむほど、頼もしい仲間たち。

もう、認めている。

音楽の神はここにいる。

聴衆に礼をして、

楽器を構える団員たちに向き直る。


― さあ、始めようか。 ―


とても珍しく。

柴崎は舞台上で微笑み

柔らかくうなずいて

同じくらい柔らかく、その右手、指揮棒をつまむ右手

左手を上げた。















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