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3-31 心酔

「ハンバーガーってのはさ。

普遍的な味だと思うんだ。

この珈琲の安っぽさにもさ、独特の味がある。

君もそう思わないか?」


と言いながら、

保育士は岬の前でマックのロゴが風呂敷のようにプリントされた

紙包みを開いて

中から顔を覗かせたバンズとパテとピクルスとケチャップにかぶりついている。


姿に。


岬は謎の(ひん)を感じる。

先ほどの信号待ちの交差点で

保育士の殺気が消えるのと共に金縛りが解けて

現実感が回復し

何故かマックに連れてこられた。


岬の腰はやはり、椅子からはみ出している。

彼の前の暗色のプラスティックトレーの前には

クォーターパウンダーとコーラが一つ。


微動だにしない岬とテーブルをはさんで椅子に腰をかける保育士が

プラスティックカップの珈琲を口に含みつつ、わずかに首を傾げる。


「食べないのかい。」


― 奥歯が ―


「ああ、そうか。」


そう言って、保育士は岬の顎の下に

人差し指を引っ掛けて


とんとん


と指先で軽く叩く。

と、岬の奥歯、顎から疼痛(とうつう)の感覚が消える。


「説明はいらないだろう。」

保育士は再び

ハンバーガーを大口を開けて()みはじめる。


「感謝する。」

「いらないよ。

僕も虫歯の人の前でこのジャンクの極み加減を

堪能(たんのう)する趣味もないし。

ハンバーガーは好きだからね。

そもそも好き嫌いがない。

ハンバーガーもケンタッキーもピザも

チョコレートだって大好きさ。

11月11日には必ずポッキーを思い出す。」


「そうか。」


「そうだよ。

で、一人でマックもいいけれど、

せっかくだから男二人ってのも悪くないし。

何より、案件の時の穢胡麻さんの様子を聴きたかったからね。

…彼女は、頑張っていたかい?」


保育士の問いに、岬は考えあぐねてから、ゆっくりと答えた。


「先生、あんたがいつも見てる通りの彼女だったと思うよ。

とても一生懸命だった。

もともと、そういう人なのだろうと、今は思う。」


保育士はイソギンチャクのようなフォルムのフライドポテトの一つに

視線を落とし、指先でつまみつつ、言う。


「うん。

とても一生懸命な子、だ。

そして、ひどく可哀そうな子なんだ。」

「それは。」

「優しすぎる。

または、欠落している。

強者には弱者を蹂躙(じゅうりん)する権利がある。

言い方を変えると

強者には強者を屈服させる楽しみがある。

行使の(あた)う力の振るい方は、村人もそれぞれだけどさ。

彼女は力を振るう事を楽しめない。

簡単に言うと。

人を殺す快楽の感受性が欠落しているんだ。

村でも指折りの強者なのに、誰よりも

人を壊す痛みに弱い。

…可哀そう、だろう?」


「ああ。」


…岬の脳裏を疑問がかすめる。


― あの人は、

人を壊す痛みに弱い、のか。

平然としていたはずだ。

常に。

誰をどうする時も。―


保育士はチョコレートシェイクのストローの先をくわえつつ

苦笑する。


「…彼女は、ほほ笑んだ、だろう?

人を殺す前に。

物事が緊迫するたびに。」


岬の脳裏に、

穢胡麻の口角

柔らかく上げられた、口角

が浮かび上がる。


「そう。

泣き虫な彼女にさ。

僕は教えたんだ。

とても悲しい時、

不安な時は、

こんな感じで、口角をあげなさい、てね。」


そう言って、

保育士はシェイクをトレーに置かれた

クルー達の集団的笑顔の写真がプリントされた紙の上に置いて

両手の人差し指を

自らの口の右と左のはしにつけて

そのまま、えくぼをつくるように

柔らかく上げた。


それは何度も岬が見た、柔らかい口角の上げ方だった。

わずかに動揺する岬に

保育士はうなずく。


「そっくり、だろう?

僕がそっくり、じゃなくてさ。

あの子が僕にそっくりに、真似ているんだよ。

悲しい時に悲しい顔をしても混乱を加速させるだけだからね。

不安を覚えるような相手に、感情をさらしても

いいことは何もない。

敵意や殺意、不安を抱く相手にこそ

ほほ笑むべきだ。

それでこそ相手の力量や出方も測れる

ってのがね、僕の武術の死んだ姉弟子からのアドヴァイスで

僕はそれを彼女に伝えた、てことさ。

彼女は僕の弟子でもあるからね。

素敵な歴史だろう?」


岬の胸を動かすものがあった。

それは肺に満ちて、気道を伝い、喉を通り過ぎて

言葉という形になった。


「穢胡麻さんは。

どう、なる、んだ?

どういう罰を、受け、る?」


訊くべきではない質問である。

村の内部事情を外部が聞き出す行為、だからだ。

保育士は彼を


殺さない


といった。

だがその質問は、彼の気を変わらせるに十分な正当性を持つものだった。

だから耐えていた。

耐えきれない、のではない。

胸の奥底が動いたのだ。


…保育士の黒髪の奥の瞳が、一瞬大きく開いた。



があく。

岬は覚悟を固め、

そんな彼に、保育士は再びほほ笑んだ。


意識が惹きつけられる。

魅力。

魅惑。

男の持つ色気が凝縮している。

それは夜の森の香りのような。

静かだが圧倒的な何かだ。


「大丈夫だよ。

僕は言葉をころころ変えない。

だけど、不用意だな。

君の質問には、

僕は


さあ、どうだろうね。

としか答えられない。

それより、彼女よりも君自身の心配をした方がいい。」


「…俺の、か?」


保育士はうなずく。


「ああ。

君だよ。

村でも屈指の強者である、穢胡麻さんを


()とした


わけだ。

そりゃ、興味も沸くさ。

でさ、興味の表し方は村人でそれぞれなんだ。

話したい村人もいる。

戦いたい村人もいる。

とりあえず、解体したいという性質(たち)の悪いのもいるんだ。

それを考えたら、僕なんかとても善良な方さ。」


「それは、つまり。」


「そうだよ。

君の命は危ない。

さっきも言ったけど、自由人ばかりだからね。

君を殺す自由を行使する馬鹿もいるだろうってことさ。

ああ。

もちろん報酬は振り込まれるよ。

そこは心配ない。

君が心配すべきは、君の命だけさ。

穢胡麻さんのことじゃない。

それは僕の話しだ。」


保育士は、岬に柔らかく口角を上げた。


― 何故。

この男は、先ほどから、俺の心を折る物言いばかりをするのだろうか。 ―


と、岬が思うと、保育士は首を傾げる。


「それはもちろん。

君との交渉を有利に進めたいからだよ。」

「交渉?」

「ああ。

交渉だ。

今言った通り、君はこのままだと一年以内に死ぬ。

はっきり言うけど、僕が面倒をみている子たちよりも

君は明らかに弱い。

けれど、無能の中では有能だからね。

見殺しにするには惜しい。

何より、穢胡麻さんが悲しむ。

そこで、提案なんだが。」


保育士は前髪をかきあげて

サイズが大きすぎるキャスケットに収めた。


キャスケットから覗く形の良い額。

長く真っすぐな眉。

通った鼻筋。

凛々しい瞳。

(あらわ)になる。

彼はそのまま、もう一度じっと岬の瞳を覗き込んだ。

瞬間。

または永遠といってもいい長い時間。

岬は豪風。

圧倒的な寒気を、その虹彩から感じた。

殺気。

狂気に近い、圧倒的な威圧。

に、岬の背筋はこおりついたが。


…直観があった。

ここで、視線をそらしてはいけない。


― 俺を生かすこの、先生が。

穢胡麻さんを殺すはずがない。

どういう形にしても、守ってくれるはずだ。

この人からすれば、これはちょっとした脅しなのだろう。 ―


「正解。」

そう言って、保育士は屈託なく笑った。

まるで少年のような。

無邪気な笑顔で。

あるいは、とても優雅で幸福な笑顔だった。

保育士は続ける。


「意をくんでもらえる事は嬉しいことだね。

穢胡麻さんのことは任せてくれ。

で、提案だけどね。

…しばらく、フランスに行かないか?

用事を頼みたいんだ。」


「内容は。」


「今は言えない。

繊細な案件だからね。」


「危険なんだろう?」


岬の

念押し

に、

保育士は瞼を薄く落として柔らかくほほ笑む。


「村の案件に、危険じゃないものなんてないよ。」


「だろうな。

…・・。」


「即答はしなくてもいい。

実際、昨日みたいな夜はゴメンだろう。

じっくり考えて返事をくれ。

その間、村人の襲撃は僕が抑えておくよ。」


岬はうなずく。


「分かった。

先生、あんたに連絡するには、どうすればいいんだ?」


岬の問いに保育士はその長い眉をはの字にして

苦笑する。


「僕も禁忌を犯すわけにもいかないからね。

とりあえず、うちの正式な連絡先を伝えておくよ。

暗記してくれ。」


そう言って、

彼は低く小さく、歌をくちずさむように

1、2、3、4

からなる数列を詠唱し始めた。

それは古代のとても長い詩のように延々と続いた。


「…以上だ。

コカコーラが飲みたいね。

久しぶりにこれを言ったら喉が渇いた。」


「…これは。」


「暗号だよ。

解いてくれ。

そもそも、これくらい解けないものに、

僕の案件はおろせない。

とても、大事な案件だからね。

無能でも最低限の無能でないと、ね。」


「つまり。」


「そう。

これが解けないくらいの無能なら、村人の手にかかって死ぬといい。

案件の修羅に生きる意志があるのなら。

今月中に連絡をくれ。」


「それが。」


「タイム・リミットだ。

…さて、僕はそろそろ行くよ。

君はもう少し、ゆっくりとしていくといい。

疲れているだろうから。」


そう言って、保育士はトレー

包装紙やら紙パックやらが山盛りの

を抱えて立ち上がり

同時にキャスケットから

前髪が落ちて彼の顔面を覆う。

姿を下から見上げつつ、岬は言う。


「先生。」

「ん?」

「俺の命を、ありがとう。」

「君は、綱を渡り切っただけさ。

綱、は太すぎだね。

糸かな。

…ああ。

言い忘れた。

その腕。」


岬の意識は右腕に移る。

保育士は言葉を続ける。


「早くいったほうがいいな。

おすすめは

新宿歌舞伎町の柄手谷(がらてや)整形外科だよ。

気難しいが腕がいい先生がいるんだ。

好みはポッキーイチゴ味だ。」


「…分かった。

ありがとう。」


保育士は、その黒髪の奥で優しくほほ笑み

踵を返す。


姿。

その微笑みに。

岬の記憶のどこかの棚が


かたり


と錠が解かれ。



― マサチューセッツ工科大学博士。

元助教授。

医療用ナノステンレスを研究。

国際的な注目を浴びる。

帰国後K製鉄所に就職。

役員になる。

田園調布の邸宅が11年前に全焼。

首のもがれた妻と

首の折られた二歳児の遺体が発見される。

三日後。高速道路カーブに衝突事故。

死亡。

歯形から本人と確認。

一連の事件が世間の関心を引くが、やがて風化していく。

日本人は死人に興味がない。

その死人の名前は ー


岬は考えてはならない

と思った。

思考を中断しなければならない。

穢胡麻に対して犯した不始末に

かなりの便宜を図ってくれたこの保育士との



を、最後の最後で踏み外す。


ー 畜生。

考えるな。

俺は生きたいんだ。 ー



それでも記憶は止まらない。


ー この先生の本当の名前は、ー



保育士が振り返った。

黒髪の奧の瞳に光はなく。

ただ、水に溺れて死んだ子供のような

(うつ)ろと暗黒があった。


殺気すらなく。

強いて言えば、岬は


立ちすくむ死体と対峙している


ような錯覚を覚え、

彼の周りの世界から、



が消滅する。


瞬間。


ふっ



と、保育士が柔らかく微笑み。

ひと指し指を一本立てて

自らの口元に当てた。


その仕草は優しく(みやび)やかで

岬は思考がホワイトアウトし

悪魔に、その精神に(くさび)を打たれたような感覚を覚えた。

保育士のその仕草が恐ろしく妖しく、(あで)やかだったからである。


岬は目を大きく刮目(かつもく)したままうなずき

保育士は再び踵を返して

マックの横引き扉の向こうに消え。

彼のキャスケットと共に、その姿が完全に消えてから、

大量の脂汗(あぶらあせ)と共に

岬の周囲に



が回復した。

世界が現実感を回復する。

が、背筋全体から寒気が取れない。



ー ぞッとした。

俺は、もうこりごりだ。

こんな地雷を踏み続けるのは。

それでも、答えは決まっている。 ー


岬は瞼を落として、

保育士の暗号

恐ろしく長い1から4までの数列

を思いだそうとする。

所々抜けているが、画像パターンとして記憶はしている。

小型Pcは戦闘で壊れてしまった。


ーまず、書き留めて、分析だ。

数列そのものには、おそらくそこまでの意味は無いだろう。

むしろ、あの人との会話が重要だ。

あの先生は、無駄な事は言わない。ー


岬は全力で思考する。

が、眠気を覚えた。

今なら、夜更けまで昏睡できる。

が、ここは藤沢のマックであり、何よりも

歌舞伎町の整形外科を受診しないといけない。


ー そこにヒントがあるかもしれない。

分かってみると、恐ろしく簡単な暗号なのだろう。ー


岬はトレーを抱えて立ち上がり

出口方向に向かった。

時に。

ふと。


岬は保育士に心酔している彼自身に気がついた。


ー あり得ない程の恐ろしさと

随分な優しさを持つ人だ。

穢胡麻さんもそうだが。

村に雇われて修羅に生きるという事は

悪くない事かもしれない。 ー


…彼はその朝から全力で暗号の解読に取り組んだが

結局解けたのは7日後。

タイムリミットの三日前、だった。














































































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