3-30 解
岬は硬直した。
信号は青になる。
水が石を分けて川を行くように
人の群れが流れ始める。
大体は背広に身を包んでいる。
化粧に不安のありそうな女性もいる。
老いも若きも男も女も
Ⅰ区画向こうの空中歩道に向かっている。
その先には藤沢駅があり
東海道本線があり
横浜なり東京なり平塚なり熱海なりに行ける。
多くは仕事に行く。
通勤というサイクル。
みな一様に気だるい。
眠気を抑えている。
岬は異質感を覚える。
モネの水彩画みたいだ。
全てが、ゆっくりとしている。
選択を迫られている。
信号は変わらない。
人は動く。
渋谷の交差点のように、止まらない。
ー 俺は混乱しているのか。 -
岬の瞳孔は開く。
死の直観。
光が反転し、暗黒へと変わる。
「うん。
時間切れだ。」
保育士はそう言って
岬に向き直って
彼を見上げた時
岬の肉体は
ぐらり
と揺れた。
解答と許しを請うべき。
罰といっても死とは限らない。
死ねば死んでしまう。
今からでも遅くない。
胸の奥の本能がそう叫ぶ。
が、彼はそれに従わず
ただ、姿勢を立て直し
背筋を真っすぐに、厚い胸板を張った。
― 堂々とありたい。 ―
そんな彼を見上げる
保育士の前髪の奥の瞳
とても凛々しい光を宿す
それが、微かに揺らぎ。
彼は目を背け
それからその長い人差し指と親指の先で
眉間を押さえた。
「…駄目だな。
僕は君を殺すつもりで来たのに。
今君を殺したら、ただの同族嫌悪だ。」
岬は意味が分からないし、動くことができない。
そんな彼にかまわずに、保育士は言葉を続ける。
「君と僕は似ている。
そりゃ、僕は有能で君は無能だけれど。
君は、無能な中でもかなり有能な部類だろう。
忍耐と判断の力もある。
何より、誇り高い。
ほぼ望むべき全てを満たしているのに。
致命的に、駄目な男だ。
…分かる、だろう?」
「俺の、わがまま、が原因だからな。」
「そうだよ。
そして。
僕の問いを、
君は正しく解いた。」
岬は意味が分からない。
― 俺は、答えなかった。 ―
「そう、
答えない
のが正解なんだ。
穢胡麻さんの罰を望むのは、卑しい。
僕は卑しい人間に容赦をする気はない。
自らの死を望むのなら。
楽にしてあげようと思う。
自分の命の大切ささえ
分からないものに
生きる価値などないし。
今回に関していうと、さ。
君が死んで悲しむ穢胡麻さんのことを考えていない。
心を考えてあげられない人間に、生きる価値などない。
だから、
どっちも不正解なんだよ。
そういうわけで、君を僕は殺さない。
そもそも。
騒いだりわめいたり暴れたり
とりあえず僕の
殺気
に耐えれない男だったなら。
すぐ殺すつもりだったんだけどね。
僕は君より穢胡麻さんが大切だし。
彼女も含めた
保育所の子たちを守るために、
人をやめたんだ。
文字どおり、遺伝子情報から組み換えた。」
岬は、保育士の言葉よりも。
ひたすら彼を蝕んでいた何かが、
大気から
霧が晴れるように
あるいは
冬の暴風雪が去って
春を予感させる
晴れ間が現れ
日差しが差し込んだような
そんな感覚を覚えて
自らの命が許された事を悟り、
全身の力が抜けた。