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3-28 巨狼

その長い夜を照らし続けた街燈は、東から淡くなり始める濃紺の夜空を受けて

光度を落とし始めるが、住宅地の路地を依然として、薄闇が覆っている。

その闇に一体化するかのようにひっそりと。

車輛が一台停車している。


白塗りのはこ型。

フロントのイルカを彷彿とさせる丸い曲線。

赤く横一直線にひかれたライン。

屋根上にのせられた、消灯された赤ランプから

それが、救急車であるということが分かる。


岬と柴崎を乗せたグレーのジープは。

全体的にカタカタという音を立てて

主に横に細かく振動しながら、

その


救急車


の後ろに乗り付ける。

と。

車輛の後部が開き。

奥のストレッチャーと青色の救命衣に身を包んだ男達。

そして、その手前から

ひょいっ

とアスファルトに降り立つ

ワンピースの女性。

その自然な物腰と、優しさを思わせる仕草に

岬の脳裏に


天女


という言葉が浮かぶ。


穢胡麻は、そんな岬にその姿勢を


すっ


と正して

何故か、恥ずかしそうにはにかむ。

ここら辺の心理は、岬には分からないが、ねぎらいは感じる。

岬は車輛を降りて

サイドに回り、昏睡を続ける柴崎のシートベルトをほどく。

と。

彼のすぐ後ろに、穢胡麻は控えている。

ので。


岬が肩越しに振り返り、黙って色々な想いを込めてうなずくと

彼女もうなずき。


「では。

確認させて頂きますね。」


と言って。

岬の前に立ち、柴崎に腰をかがめて。

彼の指、右の小指から左の小指までの一本一本を

丹念に確認する。


それは、空々しくも、また、芝居がかった作業でもない。

ただ。

一つ一つの指の。


無傷


に対する、感謝。

それが彼女の仕草、華奢な背中。

そのたたずまいの全てから伝わってくる。


― 何は、ともあれ。

良かった。 ―


と岬は思うが、表情にはあらわさず、あくまでもビジネスを決め込む。

救急車の奥の救急隊員の手前もある。

もちろん、彼らは正規の隊員ではない。

が、正規顔負けの手際で

すでにストレッチャーをアスファルトに下している。


穢胡麻は、

「はい。

 確認しました。」


と言ってかがめた上体を起こし

くるりと

岬に向き直り

白のワンピースのすそが

薄闇にふわりと浮く。


姿勢を、


すっと


正して。

傷だらけの巨人を見上げ、

両の手のひらをその胸のふくらみのたもとで合わせ

瞼を閉じつつ

深々と

礼をする。


敬意と感謝。

それは、



の使者としての、正式な評価なのだろう。


彼女の、自然な眉毛のラインの上に

切りそろえられた黒髪が

ふらりと地面に向かって揺れて

小さな額が白くのぞき。


岬は何故か。


哀惜(あいせき)を覚えつつも、言う。


「こちらこそ。

世話になった。」


穢胡麻は表を上げ、柔らかく口角を上げる。


「では、引き取らせていただきます。」


彼女はそのまま柴崎に向き直り

彼の背とシートの隙間にその二の腕を差し込んで


ひょいっ


と抱え、そのままストレッチャーに運び

救急隊員たちが受け継いで

昇降スイッチの昇を押す。

ゆっくりと、

を乗せたストレッチャーは村の救急車に収容され始める。


様子を見守る岬に。

穢胡麻は両手の指を後ろ手で組み合わせたまま。

くるりと振り返って。


そのまま、岬にすたすたと歩いてくる。

彼のつま先の前30㎝で止まり。


岬の両手を柔らかく握る。

と。

自然に。

岬の両膝はアスファルトに触れる。

が、それでもまだまだ穢胡麻からすれば高いので

彼女は彼の両肩に触れて、胸元に引き寄せ


そのまま

岬の丸太のような首に、その細い両腕を回し

強く、柔らかく

抱きしめて。


微笑みつつ、言葉を呟く。


その言葉は。

岬の心の奥底。

ひどく硬い何かに覆われて

守られていた、柔らかい場所に響く。


現実感が薄れた一瞬に

すでに穢胡麻は救急車の内部に乗り込んでいる。

その華奢な腰をかがめ

救急隊員が閉じる後部ドアの隙間から、

彼女の虹彩は岬を優しく反射し

はにかみつつ。

小さく手を振る。


その手も、ワンピースのすそとともに

後部ドアの向こうに消えて。


岬はしばし呆然とする。

彼を、白く輝き始める朝の空が照らしはじめ。

その長い夜とともに

薄闇は払われていき。


路地に、世界に輪郭が回復し。

新しい何かが始まる、(きざ)しが大気に満ちる。


赤いランプの回転とともに

サイレンが響き

救急車はおもむろに走行を開始し

すぐに角を曲がり

岬の視界から消える。

サイレン自体も遠くなっていく。


その全てが済んでから、岬は再びジープに乗り込み。

走り出すことそのものを、むずがる車輛をなだめすかして、

以前からめぼしをつけておいたパーキングに停めて。

そのまま去る。


― 世話になった、な。 ―


悪い車ではなかった。

紆余曲折はあっても、最後まで走ってくれた。

岬の鉄のような胸板に、感謝の念が満ちる。


緊張の糸が緩み、

ふっ

と意識がほどかれかけるが。


それでも彼はその歩みを止めない。

藤沢の駅までは200m。

住宅街を抜けて

ビル街に入りつつ

その長い夜を振り返る。


― 散々(さんざん)な夜だった。

計画は大幅に狂った。

追い詰められたし狙撃もされた。

黒手会にはいいように遊ばれた。

たくさんの迷惑を穢胡麻さんにかけた。

警官はうるさかったし。

銃で何度も撃たれた。

5人も()るはめになった。

治した奥歯は砕けたし。

右腕も複雑骨折だ。

クライスラーだって潰れた。

何より。



…ずっと、忘れていた感情を。

揺り起こされた。

俺は、またこれを抱えながら。

生きていく羽目になった。 ―


気が緩んだのか

穢胡麻の処置の効果が切れたのか

不意に、右腕全体の神経が鋭い悲鳴を上げる。


「くそ。」


しかし、藤沢で整形外科を受診するわけにはいかない。

随分と派手に動いた。

痕跡は残すべきではない。


岬は痛みを耐えつつ

麦を踏むように歩き。

区画の角のビルの白と青の看板のコンビニエンスストアに入り

気付けの(ひや)のアルコール飲料、度数8%を購入し

路地に出て、コンビニエンスストアの窓ガラスの端まで行き

プルタブを上げた瞬間。


「お疲れさま。」


と、声がかかり、岬の全身の毛は震えた。


いつの間にか。

岬の隣に男がたたずんでいる。

ストアのガラスに、微かに背を預けている。

岬の右腕から、痛み、という感覚が消える。

全身に張り巡らされた、すべての神経網が


それどころではない。


と、声を上げている。

叫びではない。

おののいている。


彼は、巨人の岬よりも頭一つ分せが低いものの

一般から見ると長身で。

ヴァ-ヴァリの黒ジーンズがすらりと長く。

ディーゼルの白のポロシャツから浮き出る肉体に

無駄は一切ない。

たまに目にするものよりも、かなり大きいサイズの

褐色のキャスケットから流れる黒髪に

顔面が覆われているため

表情は確認できないが。

風がかすかに吹くたびに

真っすぐに通った鼻梁(びりょう)

端正な口元がのぞく。


その何が、岬に危機感

というよりも恐怖を覚えさせたのか

岬自身も判然としない。

が。

砕けた奥歯が震え始める。


と。


前髪の奥の

切れ長の瞳が


ふっ


と柔らかくなり。

雨の上がった荒野の一面に。

花が咲き乱れるような

感覚。

有無を言わせない魅了。

を感じ、さらに混乱する。


男はいささか困ったように、その口角を柔らかく上げて

言う。


「そんなに怖がらなくても、いいよ。

僕は、ただの保育士だから、さ。」


「む、ら、か。」


「ああ、そうだよ。

穢胡麻さんが世話になったね。

僕は、村では先生と呼ばれている。

できれば、君にもそう呼んでもらえると、

とてもありがたいな。」


その声は穏やかだ。

が、何故か。

岬は、北欧の伝説の巨狼。

人の(かなわ)ざる、獣に相対しているような

そんな錯覚、というより威圧を感じた。

むしろそれは威圧というより

暴れ狂う暴風のような、とても圧倒的な何かであり。

自然に、岬は。


死の直観


というべきようなものを、その背筋に覚える。



















































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