2-18 自然なこと
柴崎は背筋に悪寒が走るのを感じていた。
たとえようも無く不快だ。
後部席の向こうのさきほどまで対向車だった車からしみだしてくる
ガソリンの臭いも。
それはいつ引火して爆発するのか、わからない。
無事ではないだろう乗員。
破裂したタイヤ。
吐き気を催す様々な事。
取り分け、白目を剥いて仰向けに倒れる岬という大男。
生きているのか、死んでいるかも分からない。
藤沢までは守るという言葉はなんだったのか。
もしその言葉が真実なら
いや、真実だったのだろう。
男の外見に関わらず、ここまでの運転はとても丁寧で
男の言葉にも荒いものは無かった。
けれど。
岬が倒れている。
生きているのか死んでいるのかは分からない。
確認に近寄ると、我が身にも何かが起こりそうだ。
何もできない。
ただ、安全を保障していたこの男が、そうなった。
次は何が起こるのか。
分からない。
外は静かで風はなく。
闇が亜熱帯的な熱気と潮の匂いをはらむ。
静寂は恐怖を。
その恐怖に、柴崎の背筋は不快に痙攣する。
その痙攣が限界を超えて、彼の肺が何かを叫びだしそうになった時
彼は胸元に震動を感じた。
ギャラクシーだ。
手錠でふさがれている両腕を四苦八苦くねらせて
柴崎はなんとかギャラクシーを取り出す。
覚えのない番号だ。
けれど、柴崎は、とにかく誰かに助けを求めたく
通話をタッチして両手で耳元に当てた。
「こんばんは。」
「…助けてくれ。」
「柴崎さんですか?」
「ああ、そうだ。今、」
「落ち着いて下さい。」
声は落ち着いていた。
澄んだ声をしていた。
消え入りそうなかすかな儚さを含みながら
とても強いものを感じさせた。
有無を言わせない何かがある。
柴崎は、肩透かしのような感覚を覚える。
「俺は落ち着いている。
混乱もしていない。
ただ、酷いことが起きているんだ。
分かったらさっさと」
「岬さんは生きていますか?」
柴崎の心臓は震えた。
「い、きているかどうか、詳しく分からない。
白目をむいて倒れている。
口から血を流している。
それより―」
―何故あんたが、この男の名前を知っているんだ―
「私は岬さんの雇い主です。
彼にあなたの拉致を依頼しました。
状況を確認して、必要なら救出に向かいます。
手は傷ついていませんか?」
「…仕事道具だからな。
傷はついていないし、つけない。
というより、あんた、は。」
「お伝えしたように、私は雇い主です。
が、貴方をどうこうということは、藤沢までは考えていません。
今、生きたいですか?
危険な状況ですけれど。」
「おれは、助かりたい。」
「それなら、状況を教えてください。
どうして車は止まりましたか?」
「右の後部車輪が弾けた。
のだと思う。
対向車が来て
岬は車を回して
後部席を相手方にぶつけた。
それから潰した。
相手は知らない。
何もしてこない。
死んだのかもしれない。
岬は確認に出て行ったのだと思う。
戻ってきて車に乗ろうとして
振り返って、倒れた。
こんなところだ。」
「ありがとうございます。
おかげさまで,大部分をつかめました。
柴崎さん。」
「なん、だ。」
「あなたはとても勇気があります。
冷静です。
けれど、怖いでしょう。
警察を呼んで、車から逃げたいと思います。
逃げるのは構いません。
が、10分待ってください。
警察はともかくとして
その後でなら、お逃げになるのもご自由に。」
「その10分で、あんたはどうするんだ?」
「岬さんを無力化した相手を、永遠に無力化します。
10分もかからないかもしれませんが、
念のため、です。」
…柴崎は唖然とした。
永遠に無力化します。
という声に気負いはなかった。
相変わらず、澄んだ声をしていた。
自信とか確信とかではない。
とても自然なこと。
あるべき正しいことを行う。
ただ、それだけの事。
朝、きつね色に焦げたトーストに
乳白色のバターを塗るのとさして変わらない。
とても当たり前で、分かり切っていること。
…そんな響きが、柔らかい声に含まれていた。
通話は唐突に切れて。
同時に、ギャラクシーが大きく発光して
電源が落ちた。
何度操作しても、再起動ができない。
―何故だ。―
これから10分。
の間に。
何が起きるのか。
その後は。
…柴崎の背を、再び悪寒が駆け上がる。
そしてそれはやまない。
まるで何かの病のように。




