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2-14 陶器

岬は手提げ袋から、穢胡麻の布を取り出し、額に巻いた。

これからが本番である。

彼は柴崎とのやり取りを通じて、最終的にルートを決めた。

横浜方面から鎌倉に抜けて江の島から北上する。


警察を使った街道封鎖は事前に予想はできなかった。

昼間の違和感は正しかった。

想定を外れる事が起きることを

想定して行動しなければならない。


柴崎の肝は中々据わっている。

簡単に錯乱する小さな人物ではない。

薬で昏睡させるよりも、

覚醒させておいて、何かが起きた時は体、特に指を守らせた方がいい。


ただ、警察車両にお捕まった時、助けを求められると

厄介だ。

が、一瞬の迷いさえこの男の中に生まれれば

その一瞬でどういう対応でもできる。

そのためには、今晩限りではあるけれど、心理的な関係を構築しなければならない。

まずはしゃべらせる事だ。


という思考のもと、岬は横浜に向かう街道で

ハンドルを握りつつ

柴崎に話しかけた。


「寒くないか?」

「…いや、大丈夫だ。」

「そうか。何かあったら言ってくれ。

 酔い止めも用意してある。」

「…なあ。」

「なんだ?」

「教えてくれ。

 あんた誰で、この車はどこに行く?」

岬は軽く息を吐いた。

質問をしてくれている。

この男は好奇心が強く、かつ人懐っこい性分なのだろう。

会話を求めている。

良かった。利害が一致した。

「俺は岬という。

 人攫(さら)い屋だ。

 この車は横浜、鎌倉から江の島を抜けて藤沢に向かっている。」

「藤沢に向かっているのか?

 随分な遠回りだな。」

「モニターあるだろう。

 赤い点が警察だ。藤沢に行く近道は封鎖されている。」

「岬さん、あんた、警察に追われているのか?」

「いや、違うよ。

 警察を動かすために、殺人とか強盗殺人、強姦殺人を起こした馬鹿野郎どもがいる。

 ま、あんたを狙ってるんだろう。

 柴崎さん、あんたは随分な人気者だな。」

「…人攫(さら)い屋と言ったな。

 あんた、誰に依頼されてこんなことしてるんだ?」

「とても怖い組織だよ。

 あんたに恨みを持つだれかが、そこに依頼して、俺に仕事が回ってきた。

 まあ、あんたも有名人だ。

 色んな恨みを買うんだろう。」


 返事はない。

 まだ起きていることが飲み込めないかもしれない。

 自暴自棄になれても困る。

 ので、岬は言葉をつないだ。


 「まあ、安心してくれ。

 藤沢までは、あんたの身は俺が全力で守る。

 大船に乗ったつもりでくつろいでくれよ。

 ま、これは車だけどな。」

「…真凛。」

「ん?」

「真凛の関係だろうな。」

「加瀬真凛か。」


 沈黙の後で、岬は視線を感じる。


「知ってるのか?」

「ああ、一通りは調べさせてもらった。

 もちろんゴシップもな。」

「そうか。

 あいつには、熱狂的なファンが多かったからな。」

「あんたたちの演奏、聴いたよ。

 芸術関係はよく分からないが、

 加瀬真凛の演奏はピカソみたいだったよ。」

「ピカソ?」

「素人の感想だけどな。

 踏みにじるように弾くだろう。

 じゃじゃ馬というのか、分からないが。

 初めはなんだこれは、と思う。

 それから、なんとなく引っかかる。

 また聴きたくなる。

 くせになる、演奏だったよ。

 …嬉しそうだな。」

「ああ。

 長年の仲間が褒められるのは嬉しいよ。

 人攫いでもな。」

「それは良かった。

 ついでに言うと、あんたの指揮も嫌いじゃないよ。

 大御所なのに、仕事も丁寧で、しかも

 焦っている。

 渇いているというのか。

 俺には分からんけどな。」


 柴崎は渇いた笑いをした。


「焦っている、というのは正しいな。

 あんた、こんな仕事なんか辞めて、評論家になったらどうだ?」

「仕事は向き不向きだからな。

 仕方がないよ。」

「そうか。

 まあ、そうだな。

 渇いているというのはちょっと違うけどな。

 じれったさはいつもあったよ。

 俺の中には、完全な美の世界がある。

 楽器も、演者も、俺も全て、

 その美を実現するためにある。

 それだけの話なのに、うまく行かなくてな。

 近づくほど遠いのが分かる。」

「イデア論みたいだな。」

「?」

「ギリシャ哲学だよ。

 ま、あんたが一生懸命なのは分かった。

 芸術家ってのはみんなそうなんだろうな。」

「…真凛は一生懸命とは違った。

 あいつは、俺と同じ世界が見えていた。

 あいつの旦那もだけどな。

 けど、俺は美の世界を実現するって使命感、か。

 そんなもので指揮棒を振っていたが、あいつは違った。」

「そうなのか?」

「そうだよ。

 あいつが好きなのはバーで、嫌いなのは美術博物館だった。

 愛していたのは陶器とかグラスだ。

 違いはわかるか?」

「いや、分からない。」


 そこで柴崎はため息をつき、それから自嘲的な笑いをした。


「博物館の陶器は、

 割れない。

 バーは、何かの拍子で、客やらバーテンダーやらが落として砕く。

 その違いだよ。

 割れない陶器なんか死体と同じだとあいつは言っていた。

 間違えようのない演奏もな。

 あいつは、グラスが一番美しいのは、床に落ちて砕ける前の瞬間だと言っていた。

 音楽も。」

「音楽もか。」

「ああ。

 あいつは、俺の見てる完璧な美を実現して、それからぶち壊す事を

 夢見て生きてたんだ。

 結局その前に死んでしまったけどな。」


 クライスラーは横浜に向かう坂道に入り

 曲線を描く道の先は暗く

 闇が迫るような感覚を、いつもながら岬は覚え。


 ―この男の闇も深い、な。―


 と思った。

 





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