とても注意深く、静かな音だった。それは組曲の始まりのように。
柴崎はロビーに降りフロントで支払いを済ませた。
ついでにタクシーを手配してもらう。
乗車したタクシーを町田に走らせる間に、運転手に謝りつつビニール袋をもらってカクテルの残りを一度、嘔吐した。そのまま、窓ガラスに肩と首を預けて眠りに落ちる。
タクシーは恩田川を越えて高ヶ阪熊野神社前に至り、目を覚ます。
視線を車外に投げる。
西にひたすら伸びる国道140号線全体を、黄色のまじった無機質な白色灯たちが照らしている。
神社入口の信号機手前で降ろしてもらい、住宅街を北に歩く。
アルコールはすっかり抜けており、その足取りは確かである。
熊野神社にさしかかり、社を覆う森を迂回するように歩いた先に、彼の邸宅がある。
帰宅が遅くなる場合、柴崎は自宅の数百メートル前でタクシーを降りて歩くことを習わしとしていた。
これは、彼の自宅で眠る齢10歳の娘の聴覚に車輪の雑音を与えたくない、という親心であった。
が、テーブルに夜食も用意しないで先に寝ている妻を起こしたくないとかそういうハートウォーミングな理由ではない。
彼と妻の関係は冷え切ってすらいなかった。
つまり、冷える、という動的な事象には、冷える前は温かかったという前後関係が付属するのだけど、夫は、社会上、もっというと仕事上、必要であるから結婚したのであって、それ以上でも以下でもなかった。
妻に向ける感情に、良しも悪しもない。
ただ、真凛が柳川真凛から加瀬真凛になった時期と、結婚時期は重なるため、そういう哀愁は、当時あったかもしれないが、今となってはすっかり忘れてしまった。
社の森は緑の闇をはらみ、森の緑の醸し出すうっそうとした濃さを皮膚全体に感じる。
―日本、だな。夜でも蒸し暑い。だが悪くは……―
何が起きたのか分からなかった。
音楽的には
とても注意深い ben marcato ベンマルカート
静かな tranquillo トランクィッロ
足音が、彼の歩いてきた道の横の木立からしたかと思うと、後ろから柔らかい布が、彼の鼻元、整えられた髭、口元を覆った。優しさすら感じる布の当て方で、とても自然に柴崎の意識は闇に落ちた。
……気が付くと、神社の森に横たわっていた。
胸の上で合わされた両手のひらには、何故かビニール製の手袋がはめられている。
意識が上手く噛み合わない。
脳の奥がぼうっと痺れている。
黒色の巨大な猟犬を思わせるフォルムの無骨な黒塗りの車が、森沿いの路上に止まり、何かが出てきて、そのまま柴崎のそばまで、森の土を踏みしめてくる。
その何かの向こうに広がる住宅街は、ほんのりと暗く、まばらな灯りがながめられた。
森の葉が織りなす空気は濃い。
それは、とても大きかった。
住宅街の暗さに闇が浮かび上がる。
その闇は動く暗黒と言えるほど圧倒的な何かだった。
痺れた脳のためか、それが人の形をしていると気が付くまで、柴崎はしばらくの時間を要した。




