記憶を愛するのは男、幻想に酔うのは女
柴崎が率いる一団は京成エクスプレスで上野まで揺られ、改札を出た時点で解散となった。
本来は新宿の本部まで赴き色々な手続きを行うのが筋ではある。
だが、明後日にヌーベルバーグ東京音楽祭を控えている以上、楽団員の休養、心機の切り替えに、楽団長は重きを置いた。
そういう彼は、上野の雑踏の中、楽団員一人一人の肩に柔らかく手を置く。
この行為は海外公演の働きのねぎらいの意味を帯びる(加瀬に対しては無言だった)。
全員を見送った後で新宿の本部に向かい、理事長への報告を行う。
音楽雑誌関係のインタビューも複数こなし、彼らの「分かったつもりの浅はかな理解」に辟易とした。
真凛の夭折についても遠まわしに触れてくるので、柴崎のいら立ちは頂点に達しかけるが
もちろん顔には出さない。
彼らはそういう仕事であるし、ポーカーフェイスが、柴崎の仕事であるからだ。
その後で、芸能界の大御所である楽団の副理事長との面談が行われた。
といっても、雑談程度なのだが、彼女のひょうひょうとした言葉の運びに、楽団長は毒気を抜かれる。
―本当に頭が玉ねぎだな、この人は―
その後、報告書類作成業務を行い、時差ボケもあって微かな酩酊を覚える。
他の楽団の大御所は、秘書などを雇ってこういうことは済ませるのだが、柴崎はほぼ全てを自らでこなす。
それが気分転換でもあり、また、「考えをまとめる手段」でもある。
それでも夕方になるとほとほとに疲れ切る。
疲労のままに、クールビス的なスラックスに着替え、トランクを町田の自宅への郵送をするように依頼する。
この時に応対してくれる事務員への温かい言葉も、もちろん忘れない。
一通り終わってから、ドリップコーヒーを入れて机に肩肘をつき、うたた寝と共に、本格的な眠りに堕ちる。
……意識が闇から回復と、デスクトップの時間表示は20時を回っている。
―いつもなら、真凛が起こしにくるんだがな。ああ、そうだ。もうあいつはいないんだったな―
中年は首をこきこきまわして背筋だけでのびをした。
一階に降りて年配の警備員と軽口をたたき、会釈をして本部を出る。
都営線地下鉄に乗って赤坂に向かい、地上口に出てすぐのホテルの最上階に登る。
併設されているバーのカウンターに腰を落ち着けて、1930年代の陽気で(柴崎からすれば)荒唐無稽なジャズの音色に、微笑ましく耳を傾ける。
いつも通りに、ホワイトラムとライムジュースのカクテルであるダイキリを頼んでラムの香りとライムの清涼感で彼の背中に蓄積した疲労を浄化しようと思うが、ふと、スピリタスとラッテ・リ・スオットゥイラのカクテルであるゴー・トゥー・ヘイヴンを頼みたくなり、長髪を後ろでまとめた女性バーテンダーに
「これを」
と、メニュー表をさして頼む。
彼女はいささか瞳を大きくして、温かく頷く。
アルコール度数96度のスピリタスと、同じく度数75度の、継母の乳を意味するラッテ・リ・スオットゥイラの飲み口は意外とまろやかで、深みのあるハーブの味わいがする。
天国に昇天はともかく、あおり続けると確実に卒倒するこのカクテルを、真凛は好んでいた。
海外公演が終わると、柴崎と真凛はいつもこのホテルに部屋をとり絡み合った後で、このバーで飲む、というのが彼らの習わしだった。
そうして、ひとしきり飲んでから、柴崎は町田の妻子の元に向かい、真凛は浅草の、もつ鍋屋に赴いていた。夫である加瀬が待っていたからだ。それもまた、習わしであった。
コンマスは常に、その体格にしては小さな鍋を、箸の先でかき回しながら、手酌を傾けていた。
―当たり前な話だが。真凛はいない―
「さて、かちゃぴんとこに行くわ」
「かちゃぴん、ねえ」
「そっくりでしょ。可愛いし」
「それはお前の趣味だな。加瀬ちゃんが変化してかちゃぴん、か」
「ふふ」
そんな他愛のない別れ際を思い出しつつ、柴崎はグラスの杯を重ねる。
彼はアルコールでは酔わない。
代わりに、限界を超えるともれなく嘔吐する。
なので、隣の席に座ってきたブロンドのフィンランド人女性の会話を中座して、トイレットに向かい、象牙のようなウォッシュレットに毛虫のように身を丸めては茶色の液体を吐く。
何度も、何度も嘔吐を繰り返した後に。ようやく胸元のハンカチで口元をぬぐう。
―嘔吐をテーマにした組曲を、誰かが書いたらふざけた曲だと俺は文句を言って。誰よりもうまく、演奏するんだろうな―
会計に向かい、フィンランド人の分もカードで支払い、燦然と輝く夜景を傍目にエレベーターに向かう。
孤独な男は思う。
―つまり、俺は今、真凛を抱きたいんだ。他の、誰でもなく―




