子犬のワルツはとってもラヴリイ。
綾瀬の口元が半ば開いた。
並びの良い下の歯が白く覗くが、彼女は言葉を発する前にその口を閉じる。
その黒めがちな瞳から光が喪われ、代わりに整った容姿が美しさを増す。
そんな彼女に柴崎はいささかの苦慮を微笑みに滲ませて、、優しく語り掛ける。
「気が進まないのは分かる。久しぶりの日本でやっと羽根伸ばせると思ったら上司からハンプティ・ダンプティと飯食えと言われるなんてな」
「団長」
「ん?」
「私、加瀬さんとうまく行ってないんですか?」
「うまく行ってない、というのは言葉のニュアンスが大分違うな。お互いを認め過ぎている。過度の尊重というのか。お前もハンプティも楽譜の勘は極上だけどな。だからだろうな。わかっちまう。ぶつかるってさ。それは悪い事じゃない。問題は、ぶつかる前の微妙な緊張だ。……分かるだろう?」
上司に問われた綾瀬は小さくうつむく。
「はい。本当にお見通しです。」
「あいつもお前も負けず嫌いだからな。表面上はどっちも完璧だぜ。…だからこそ、お互い苦しむんだろうな」
柴崎はそう言って、ふわりと微笑んだ。
その微笑みはとても優しく、綾瀬は胸に幸福と戸惑いを感じる。
加瀬との軋轢は感じた記憶がない。
むしろ、人格者である加瀬とは、これまで巡ってきた楽団の中でも、かなり気さくな交流ができているとの認識が彼女の中にはあった。
「つまり、団長は私に加瀬さんと打ち解けてほしいんですか。」
「いや、むしろ逆だよ。あいつはいいかっこしいだからな。嫌なとこを探してほしい。後は趣味とか好みだな。コーヒーに入れる角砂糖の数でもいいさ。ちょっとした理解を重ねることで、大分違ってくる。つまり、これは仕事、残業みたいなもんだ」
「残業、ですか」
その華奢で色白な首を傾げる綾瀬に、口髭の上の鼻梁が美しい中年は頷く。
「ああ、残業だ。長期勤務を終えたての新人部下に残業押し付けるとか俺は最低な上司だが」
「そんなこと、ない、です…!」
「……お前にしか、できないし、頼めないんだ。明後日のヌーベルバーグ東京は、そうだな。この残業にかかっている。」
「団長。分かりました。」
そう言って、綾瀬は背筋をぴんっと伸ばし、小さく敬礼の仕草をした。
「私はあなたといたいし、特に今晩は他の誰ともいたくありません。あなたと、いたいんです。けれど駄々をこねて困らせるのはもっと嫌なので、お引き受けします」
……という心持ちが、彼女の仕草から柴崎に伝わり、上司は微笑みの奥で安堵する。
「悪いな、綾瀬。ハンプティ野郎は海外から戻るとさ、いつも、浅草の国際通りから上野に入った屋敷町のもつ鍋屋で飲むんだ。浅草だからもんじゃ喰えばいいのにな」
「あ、あたしもつ鍋好きです。 結構嬉しいかも、です。……女子でもつ鍋好きってどうなのって感じですけどね」
そう言って、彼女は照れくさそうに、その瞼を優しく落として笑った。
「とりあえず、帰ったら一人で泣きます。」
……とでも言うように、彼女の黒めがちな瞳はうっすらと濡れている。
部下の面持ちに、柴崎は彼女の黒髪を、京都の実家のチワワと戯れる時にするように、くしゃくしゃと撫でてやりたい衝動を覚えたが他の団員たちの手前、控えた。




