団長は部下想い
成田空港の到着ゲートの手前。
離陸前に預けたトランクがコンベアに乗って流れてくるのを楽団員たちが待機していた。
とても真剣にコンベアの上流にかかる分厚く黒いすだれに注視している。
楽団の指揮者は、その様子をいささか遠巻きに眺めながら、ふと思う。
―そういや、うちの楽団のオーディションで発表待ってた時も、こいつら皆こんな顔してたな―
柴崎の脳裏に楽団員一人ひとりとの記憶が浮かび上ったので、自然と彼の頬の筋肉は柔らかく緩んだ。が、こういう表情をみとめられたら恥ずかしいなと思い、それとなく周囲を見渡す。
と、彼らが歩いてきた動く歩道の方向で加瀬が佇み、スマホに何やら話している。
随分と瞳が暗い。
口元を読むと、
「お手数おかけいたします」
と言っているので、柴崎は彼のそばまで行き声をかける。
「何してんだよお前? トランク出てくるだろ。結構早く預けただろ」
加瀬は微かに慌てた。つぶらな瞳が脂肪の中で泳ぐ。
「あ、ああ。……話していいですかね?」
「迷うなら話したいんだろ?」
「まあ、はい。……真凛の後輩たちが、札響とかでソリストやってる子たちですけどね。今年も音楽祭に来てくれるって。花も出してくれるそうです。なんか、とても申し訳なく感じまして。迷ったんですが、結局お願いすることにしました。席も押さえておかないと」
「加瀬よお。……そーいうこまごました雑用はさあ。新人が走るもんだろう。もっとさあ。俺らの歳なら考える事あるだろうがよ」
「え?」
「他人の寄越す花のこと気にしてる暇あるなら、てめえの楽譜に向き合え。怠け者が」
「……」
加瀬はうつむき、柴崎はそんな彼に舌打ちをしつつ、そのフォルムの端正な顎の先でコンベアをさして言う。
「お前のトランク、出てきたぜ。行けよ」
コンマスは会釈をしてコンベアに向かう。
そのハンプティ・ダンプティのように横揺れする後ろ姿、および照明にてかる頭頂部に視線を投げると、上司はその長く細い指を櫛にしてして、黒髪の豊かな頭部を掻きたい衝動を覚える。
が、衆目を考え我慢していると、
「団長」
と、透き通った声が後ろからかかった。
アイロンでパリっとしわが伸ばされている濃紺のスーツの肩越しに振り返る。
綾瀬の歯並びの良い笑顔が、柴崎の視界に飛び込んできた。
クールビズの女性用ワイシャツに袖を通した華奢な両手を後ろ手にして、とても嬉しそうに頬をゆるめている。
「おう、どうした?後ろから」
と、柴崎が言うと、綾瀬は悪戯っぽく笑う。
「後ろから声をかけて、団長にびっくりしてもらいたかったんです」
「俺は驚いてるように見えるか?」
「いえ、でも団長ポーカーフェイスだし。八割くらいは目標達成だと信じてます」
「そうか。トランクは」
「ずっと前にとりましたよ。氷河期くらいに。あ、でもトランクとか引きずると団長に気づかれるから、向こうに置いてあります」
「綾瀬」
「はい」
「手荷物は身から離すな」
「団長」
「なんだ?」
「もうここは日本です」
「それもそうだな。綾瀬の言う通りだ」
と言って、柴崎はその髭を揺らして、優しく笑った。
綾瀬もつられて笑い、つっと、沈黙し、わずかにうつむき空港床の絨毯に視線を落とす。
すきとおった白い頬にわずかに朱がさしている。
「今団長の笑顔が可愛くて、貴方の髭を私の指でなぞりたくなりました。誰もいないところで、ゆっくりなぞりたいです。一緒にいて、じゃれあいたいです。二人で久しぶりの日本でお寿司を食べてパスタに文句言ってお酒飲んでもいいけれどとりあえず団長に誰彼はばかることなく抱き着きたいです。ご自宅に帰られるまで時間があるでしょう。どうでしょう?」
櫛の通りの良さげなセミロングの黒髪を、照明にきらきらさせながら、そのどちらかというと華奢な肩をもじもじと動かす彼女の仕草は、そんな事を言っているようで、柴崎は困ったように微笑む。少しの間を置いて、優しく言う。
「今日はさ」
「はいっ!」
綾瀬はばっと顔を上げて、真っすぐ目の前の上司の瞳をのぞき込む。その瞳は微かに濡れている。
まるで子犬のようだ、と柴崎は思う。
「悪いな。今日はさ、早めに帰る予定なんだ。うちの奴に早く帰って来いってせっつかれてる。情けない話だけどな」
綾瀬の瞳から、光が一瞬消失するが、すぐに元に戻る。
「そ、そうですよね。そうーですよねー」
「悪いな」
「いえいえ。あたしが団長といたいオーラがマックス過ぎなんです」
「ま、それはありがたい。俺の鼻の下も伸びるよ。でさ、悪いついでに甘えていいか?」
「あ、はい!どうぞ! どーんと!」
一瞬でマックスに張り切る綾瀬に思わず微笑み、柴崎はゆっくりと、語りかけるように言う。
「今夜はさ、加瀬のハンプティ野郎と、飯食ってやってほしい。俺の頼みってのは内密でな。お前の意志でもない。あくまで、偶然、て感じでさ」