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芸術家たち

 成田国際空港が近い事を(しら)せる客室乗務員の優しくかつ雅なる声の響きに、加瀬はペールギュントの「朝」の調べを連想した。

 

―あの組曲の物語もこの空の旅も、旅という意味では本質的に同じだし、明後日のヌーベルバーグ東京音楽祭では丁度ペールギュントの魔笛が演目として割り当てられている。全体のイメージの統一として今回の空の旅を使うのも悪くはない。調整が難航したらコンマスとして提案してみよう―


 加瀬は小さく頷き、エラが脂肪に消失して久しい頸部に緩やかな皺を作った。

 同時に、その卵形の頭部が、暖色の非常灯の光を鈍く反射する。

 彼の卵形の頭部、両耳の周辺以外は見事に禿げ上がっている。

 

「今さ、ペールギュントの事考えてたろう」

 不意に声がして、加瀬はぎょっとしつつ隣の柴崎に視線を向けた。

 長方形の小さな窓べりに首を預けて腰をずらし、彼はその端正な二重瞼を閉じて、赤子のごとく眠っている。

 ……ように加瀬には見えた。

 窓辺から差し込む朝の光が、上空12000mの澄んだ大気を透過し

、彼の丁寧に切りそろえられた髭とやや長めの髪に輝きを与えている。

 

 ―まるで祝福のようだ。―


 加瀬は口を開く。


「起きてたんですか」


 柴崎は薄目を開ける。


「お前の考える事じゃないんだよ。浅はかだ。ペールギュントはそんなもんじゃない。本当に、浅はかだな」

 寝言をつぶやくようにすぼめられた柴崎の口から出る言葉の矢が、加瀬の心に深く刺さる痛みをごまかすように、苦笑しつつ加瀬は柴崎に語りかける。


「ザルツブルクも好評でしたし、明後日のヌーベルバーグも楽しみですね」

 

 柴崎は再び瞼を閉じ、クリーム色のブランケットをおもむろにその胸元にたぐりよせつつ顔をしかめる。


「お前が台無しにしなきゃ、俺たちは一番だったよ」

「……台無し、ですか」

「自覚が無いから無能なんだよお前は。コンマスが技術でバイオリンのソリスト喰ってどうすんだよ。一番輝くのは綾瀬なんだ。そりゃさ、真凛が逝ってからさ、お前は格段に巧くなった。何かが変わったんだろうな。本場にもさ、お前ほどの弾き手はいねえよ。それは認める。でも年を考えろよ。天才とか騒がれたいならもっと若いうちに本気だしとけよ。屑が」

「綾瀬さんの事も考えて僕は」

「あいつはお前にびびってんだよ」


 ―そうなのだろうか―


 加瀬が綾瀬、新人ソリストが背を預ける斜め後方の席に視線を飛ばすと、綾瀬という28歳の女性は黒のアイマスクで目を覆いつつ、倒したシートにのけぞるように大きく首を預け大口を開けて眠っていた。

並びの良い白い歯が、控えめだが形よく塗られたルージュから

幼くのぞく一方で、口元の端から垂れかけているヨダレが、酷くアンバランスな、つまりそこだけがなまめかしく淫靡な印象を与えている。

 その口元に反してマスクからのぞく鼻は透けるように整って、鼻梁の筋がくっきりと美しい。


「物怖じする子には見えませんが」

「舞台じゃ別だ。お前さ、綾瀬に真凛を重ねてるだろう。真凛だったらこうしただのああしただの。死んだ女にいつまで未練たらしてんだ。だから無能なんだよ」

「柴崎さん。真凛のことを、なんで、そんな」

「俺も真凛は惜しいよ。今でも悲しんでいる。お前なんかよりな。けどな、世界は真凛なんか忘れてくんだよ。当たり前だろう?それともお前は真凛の思い出を、世界の聴衆に押し付けるのか?何様なんだ?」

「……」

 加瀬の奥歯と拳に、自然に力が入った。

 ぷっくりと太い胸を具体的な痛みがえぐる。

 柴崎は再び薄目を開き、窓外に広がる青い大気に首を向ける。


「言い返すことすらできないのか。無能が」

「……なら、別のコンマス雇って下さ」

「馬鹿野郎」

「……」

「お前と綾瀬の相性はいいんだよ。俺がゾクゾクするくらいな。すげえ快楽だぜ。想像するだけでな。お前と綾瀬しかいないんだよ。俺の完全なる美の世界を実現するのはな。……とりあえずさ、ヌーベルバーグが終わってから飲もうぜ。もしあれなら抱いてやれよ。案外しっくりいくかもだぜ。 あいつも結構お前のことは好きだし、そもそも好きだからびびってもいるんだろうな」


 柴崎の髭がいやらしく歪む。


―…また、あんたのお下がりか―


  という憂鬱を根元として、加瀬の胸にため息と虚無がこみあげたが、哀れなコンマスはそれを必死にこらえた。

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