朝食はサンドウィッチ
―失敗した―
岬が鼓膜に感じた音は、シャンパンがたてるそれに似ていた。
とても軽く、祝宴の陽気に満ちた一瞬の音。
間を置かず、車体全体に拡がる震動。
それは蚕食された奥歯に歯科医が当てる医療器具のそれと似ている。
対向車であるトヨタの白のハイエースの強い白色光を眼窩に受けた瞬間も、歯科の診療台で斜めに横たわる時のそれと重なり、ふと、自らの奥歯に視線を落とす歯科助手の女のくっきりとした二重の瞳とその下のマスクに覆われた口元を思い出す。
「痛かったら手を挙げてくださいね」
と彼女は事務的に言い、呼応するように軽く頷きつつ、体の芯を硬直させた。
……あの時の硬直とは比類のしようがない覚悟を全身に感じつつ、ブレーキを勢いよく踏み、サイドブレーキを引いてハンドルを右に切り、クラッチを踏み込んだままアクセルで高回転域にエンジンをふかし、すぐさまクラッチをつなげる。
この一連の操作により、彼のクライスラーの黒のグランドボイジャーは鍵を差し込まれて回転する鍵穴のように暗い直線道路を進行方向に向かって時計回りに反転し、対向車のフロントに向けてその尻を大きく振る。
同時に岬の隣席の男の頬がドアガラスに、ガバーガラスをかけられたプレパラートのように、慣性に押さえ付けられて呻き、その蛙のような声は微かなビブラートを奏でる。
男の名前は柴崎。
その鼻梁は美しく、漏れるようなビブラートと同じ程度には美を感じさせる。
その下の口ひげは薄いものの、丁寧に切りそろえられている。
髭の下の整った細い顎、肩、薄い胸板は、まんべんなく車体の急速な旋回による加重で横方向、つまりグランドボイジャーのガラス窓に押し付けられ、空中でゆるゆるとしているのは、手錠でしっかりと結びつけられた華奢な両手首である。
柴崎のビブラートの意外な響きの良さに、岬は
―のん気なものだな―
と舌打ちしつつ、来るべき衝撃に備えようとするが、その完了をまたずして、グランドボイジャーの左後部が、ハイエースのフロントに衝突し、金属が大きくひしゃげるのを知覚した。
彼のがっしりとした首に太い血管が浮き上がるのと裏腹に、左手でギアを滑らかに操作してバックでアクセルを踏み込む。
結果、対向車であるハイエースに更なる衝撃を与えた。
それは槌を鋼に叩き付けるような物だった。
ピクサーのカーズのファンが見たら悲鳴を上げそうな事態に関わらず、もちろん潰れる車輛の乗員の安否は確かめず、そのままギアを切り替えて一度前方に進み、さらに切り替えて、後方に強くアクセルをふかす。
被せてそれほど間もない左奥歯の詰め物に噛筋で磨り潰すような力を加えながら、衝突を複数回繰り返した後、グランドボイジャーを停車させた。
―サシなら、もう少し念をこめたかったが、仕方がない―
運転手は柴崎のうなじにその分厚い手のひらをそっと当てる。
その肉体は力なくしなだれているが、刻みの正常な脈が体表に伝わる。
間を置かずして岬は柴崎の両手、そのだらん、と弛緩した指先に視線を落とし、傷がないことを、暗闇と静寂の中で確認する。
―良かった。失敗はした。が、取り返しはまだ付く。この男の指先は、未だに傷はついていない―
岬は着衣の乱れを調べて愛娘の無事を確かめた父親をほうふつとさせる、安堵のため息を思わず漏らした。
その事実に眉間をひそめつつ、サイドレバー横に備え付けの特殊警棒の柄を握りしめ、身を低くして車外に出る。
ハイエースは微かなエンジン音を排気していた。
それは幼子のたてる寝息、あるいは前脚に顎を預けて眠る犬のいびきに近い静寂を伴う。
フロントは惨めにひしゃげている。
その惨状に顔面を殴打しあうボクサー達の写真を連想し、国産車でも外車でも分け隔てなく車というものを愛する彼の胸は、悲しみに痛む。
が、その奥の男たちに対しては、そこまでの情は湧かない。
男達は左右のサイドドアに挟まれて、折り重なるようにして潰れている。しかしそれも彼らの仕事である。なんら哀愁の余地も無い。
そういう訳で岬はただ、朝方に仕事に対する気合と共に咀嚼したサンドイッチを思い出すだけだった。
それは耳を取り除いた食パンに、色の濁ったピンク色のハムを二枚と乳白色のプロセスチーズを一枚はさんだものをのせて、濃い赤のケチャップを容器の先からその上に大量に垂らしてほぼ赤で埋め尽くしてから食パンで再度はさむという、とても単純だけれども、それゆえに混じりけなく旨い、そういう一品であった。