第88話:世界はそういうふうにできている。
「…………あ」と僕の喉から声が出た。
一瞬で距離を詰めたガレットが、小柄な少女を抱えこんでいる。
この戦い、ルールはシンプルだった。
エクレアはアートのどれか1つをクリーンヒットさせれば勝ち。
ガレットは攻撃をエクレアに当てるか、拘束してしまえば勝ち。
今、ガレットはエクレアを抱きかかえている。
その腕の1本で、エクレアの胴体ほどの体積があるようにも見える。
体格の差は絶望的。
もう、逃れられない。
「悪い子だ。エクレア。パパに歯向かっちゃいけないと1年もかけて教えたのに、まだ分かっていなかったのかい? お前は、パパに、勝てないんだよ?」
ガレットはエクレアの薄青の髪に顔を埋めて、その匂いを嗅いだ。
「…………ん?」
わずかに、ほんのわずか、ガレットは腕をゆるめた。
まるで抱きかかえた感触に違和感があるとでも言うような表情で。
それもそのはずだった。
にぃっと笑いながら、ガレットの腕の中で顔を上げたエクレアはゴーグルをしている。
「パパ、わたし――――面白いものを作ったんだ」
縄で縛られた、ボロ布。
見た目はそんな印象。
だけれど、それは魔法使いを封じる、最高の作品だ。
コショウ爆弾。
目一杯詰めたコショウを、爆竹のように拡散させるその道具を。
エクレアは愛するパパの胸元で炸裂させた。
「ぶっは――ッ!」
薄茶色の雲が親子の感動の抱擁を彩る。
「げはっ! き、おまえっ! はっ! げはっ!」
「動かないでね。間違えて、首の血管が切れちゃうかもしれないから」
地面をのたうちまわっていた大男はぴくりと動きを止めた。が、すぐに咳き込み始める。その背後には、ナイフをぴたりと首筋に当てるエクレア。びくり、びくり、と大男の身体が咳き込むたびに揺れる。
「羊皮紙の資料、もらっていくよ?」
「ぐはっ! ……分かったっ! 好きに、ごはっ! しろっ!」
「繰り返して。『これは単なる親子喧嘩だった』」
「これはっ! げはっ! 単なるっ! 親子、げはっ! 喧嘩だっ!」
「よし」
エクレアは身軽な動きでガレットの上から離れると、散らばった羊皮紙を1枚残らず集めた。
その向こうではトドがのたうち回っている。
エクレアが羊皮紙にふぅっと息を吐きつけると、コショウが舞う。鼻がむずむずしてきた。
「じゃあ、帰ろうぜ。コロネ」
「うんっ!」
ゴーグルを外しながら、エクレアがこちらに近づいてくる。
「3人とも、ありがとうな」
エクレアは2人に笑いかけて、その後――――
なにかを待つように、僕を見上げた。
「…………」
僕はすごく自然にその頭を撫でていた。薄青の髪の反発するような手触り。舞い散るコショウ。目を細める小柄な少女は、笑っている。
「……頑張ったね、エクレア」
「全部、肉体奴隷のアイツらのおかげだ。アイツらの声を聞いてたら、なんだかゼンブがバカらしくなってきちゃってさ。タカハが連れて来てくれたんだろ?」
「……さあ?」
「とぼけんなって」
僕たちは背後に立った男たちを無視して、扉のほうへ歩き出した。彼らは『単なる親子喧嘩』を理由に部外者である僕たちに手を出すことはできない。
親子喧嘩であると宣言したのは、他のだれでもないガレット本人なのだから。
扉の側に立っているのは、コートを着た若頭、コーデさん。
「コーデ、ごめんなさい。部屋を汚しちゃった」
「お安いご用です。……お嬢は、領都へ帰られるんで?」
「ああ……。そーだな、それは決めてなかった」
「たぶん、ですが」
若頭はクールな微笑をエクレアに向けた。「このフレーズは、お嬢には狭すぎるんじゃないでしょうか?」
「おお! さすがコーデ、いいこと言ってくれるじゃん!」
「いい喩えでしたよね。現実のお嬢はかなり省スペースなんで」
「しれっとバカにしてんじゃねえよ!」
「お嬢」
「ん」
「足元お気をつけてお帰りください。……どうか、本当にどうか、お元気で」
「ああ。コーデも」
エクレアは目を伏せて感謝を示すと、素早く扉を出た。
「げはっ! ……はっ! ……がはっ!」と咳き込む声が反響する。
「だれでもいい。水を持って来い。……これが親父の家系の親子喧嘩ってやつだ。お前ら、よく覚えておけよ」
コーデさんの言葉に少しだけ笑って、僕は薄青の髪を追いかけた。
――
その後、僕とプロパ、リュクスの3人は長い緑のコートを羽織って、ガレットの館を電撃的に訪問した。証拠となる『書類』を突きつけると、ガレットはあっさり奴隷たちを解放した。
保護したのは16名。
全員が、両親をいずれも失っていた。
亡くなった原因としては『招集で死亡した』というものが半数以上だったけれど、残りは『魔法奴隷同士の決闘』や『窃盗の疑い』など、グレーな感じの罪状がガレット・ファミリーの経由で騎士団や領城に報告され、彼らの裁量で死刑となっていた。
彼女たちの容姿は、肩入れしたくなる僕の心理的な状況を引き算したって、誰1人の例外なく可愛らしい。そして、みんな、小柄だった。珍しい色の髪もちらほらいた。
明らかに、そういった子どもたちが集められている。
エクレアの両親を含めて、選んで殺された可能性は否定出来ない。
僕が暴き切れていない汚泥のようなものが、まだ隠されているのだ。
飲み物の最後に、ざらりとした舌触りのものが混じっていたかのような。
「若いな。騎士様」
ガレットは、悠々と、笑う。
「貴方たちがその資料でなにかを暴いたとしても、私の懐が少し痛むだけだ。…………私は好きだ。小さくて、未熟な、果実の青さが好きなのだ。私がこの椅子に座り続けている以上、何度でも繰り返されるでしょう。そのことを、覚えておいていただけますかな?」
僕たち3人は無言でガレットを見る。
僕が、僕たちの誰でも、魔法奴隷のガレットの命を奪う権利がある。
騎士が公爵から借りている、奴隷の命すら奪う権利。
ガレットだって分かっているはず。
なのに、僕らを侮辱した。
今回の任務の条件は『ガレット氏に重大な危害を加えないこと』。
僕たちは握りしめた拳を、ゆっくりと下ろすしかない。
ガレットは分かっているのだ。騎士団が命まではとらないと。
そして、命があれば、またいくらでも稼ぐことができる、と。
「――――世界は、そういうふうにできている」
ぞっとするような笑みが、僕の記憶に焼き付いた。
――
「……なータカハ」
「なに?」
「前、言ってたよな。革命を引き起こすって。この国を変えるって。奴隷たちの可能性に賭けてみたいって」
「うん。それは今でも変わらないよ」
「そこにさ」
「うん」
「肉体奴隷たちが入り込める場所って、あるのか?」
「……作るよ」
「……」
「僕が作る。肉体奴隷たちの場所。約束する」
「分かった」
エクレアはんしょ、と靴紐の最後を結び終えて、立ち上がる。
「じゃあ、ちらっとホンキ出してくるぜ」
僕はエクレアの背をとんっと押した。ツナギを着た薄青の髪の少女は振り返らない。代わりに、アートを満載にした大きなリュックから、金属同士がぶつかり合う音がした。
エクレアは踊り出る。
領都、北東区。肉体奴隷たちの仕事場。
仕事を終えた肉体奴隷たちが作り出した『コロッセオ』という名のステージへ。
周囲の建物から、どよめきが広がる。
エクレアの登場を願い、1度は諦め、そして、願いが叶って歓喜する奴隷たちの声だ。
「お前らうるせえ!!」
人間大のヒキガエルのような声が一喝した。
エクレアを待ち構えているのは、彼女の何倍も大きな男だ。血走った瞳と、小さな口、恐ろしい歯並び――手負いのサメの雰囲気をまとった領都の肉体奴隷たちの現リーダー、グラスリー。
2人はコロッセオの中心を軸に、ぐるぐると回り始める。
「おうエクレア。俺のところに来た勇気だけは認めてやる。ハンデで5秒だけやるぜ。好きに殴ったり、蹴ったりすればいい」
グラスリーの声はよく通って、言葉がコロッセオに広がっていく。
「ほんとうに……いいの?」
「ああ。俺はグラスリー様だ。ケンカでは負けなし。お前みたいなちっこいヤツには例外なく5秒のハンデをあげてる。俺のポリシーだ。がははっ」
「道具を使ってもいい?」
「もちろんだ」
「あー、グラスリー、ほんとうに優しいんだな」
「だろ? 俺はな――」
「ボク、キミのことがすごく怖かったんだけどさ」
「それは仕方ないぜ? 俺はな――」
「こんなマヌケだって分かってたら、さっさと倒しておけば良かった」
「…………あ?」
「ほんと時間のムダだったな。図体だけの木偶の坊じゃないか。実家であんな嫌な思いをしなくて済んだのに。ミステリアスなボクっ娘のイメージ完全崩壊しちゃったよ。……まあでも、いいや。もう大きな男だってボクは怖くないし」
「おい、てめえ――――」
「だからさ、なんで動かないんだよ。もう詰んでるぜ?」
すぱぁんと甲高い音が響き、右からグラスリーの顔面に黄色いペーストが直撃した。
左からは石を括りつけた縄が、グラスリーに絡みつく。
背後からその臀部に小さな矢が突き刺さり、大木のような足が一気に脱力する。
「んなあああああッ!」
刺激物を両目に突っこまれ、全身に縄を絡ませ、即効性のしびれ薬を足に撃ちこまれたグラスリーは、地面でのたうち回る。
僕は見ていた。
というより、コロッセオの全員が見ていたはずだ。
エクレアがグラスリーを挑発しながら、何気ない動きの中で次々とアートを設置していたことを。
本来は1つで十分なのに、それを3つ。
グラスリーにバレてしまうのではないかとドキドキしながら見守っていたせいで、僕も、奴隷たちも、野次を飛ばすことができなかったのだ。
「グラスリー、聞いてくれよ。お尻、チクっとしただろ? しびれ薬が付いてたんだ。先端に。このしびれ薬はボクの実家の特産なんだぜ」
「なっ、こ、この……っ!」
グラスリーの脱力した両足をきつく縛り上げながら、エクレアは歌うように続ける。
「こんなよく効く薬、トーゼン安いはずがないだろ? 肉体奴隷のボーナス1年分をつぎ込んだんだ。こんなちっこい矢に塗る分だけでボーナス1年分。いい商売だよな。だからさあ……もうちょっと、こう、粘ってくれよ」
エクレアのため息まじりの煽りにコロッセオがどっと沸いた。
これだろう。
エクレアの戦いは、見ていて面白い。
あんなに小さいのに、一切の容赦なく、敵が倒されていく。
グラスリーは「がああああッ!」とのたうち回っているばかり。
「おーい、グラスリー。グラスリーってば。朝だぜ。……おいおい、寝ぼけてんのか? マスタードが顔についてるぞ?」
「え、エクレアああああッ!」
「間違ってる。エクレア様だろ?」
「こ、このッ!」
「次はどれにしよっかな」
「ひっ」
「身体が大きいやつじゃないと試せないアートがいくつかあるんだよ。全部試作品なんだけどさ。安全かも分かんないけど、強いグラスリー様ならちょうどいいだろ?」
グラスリーは立ち上がろうとして、エクレアに縛られた縄のせいでころんだ。
エクレアは肩をすくめる。
その肩越しに、肉体奴隷たちのブーイングが続く。
エクレアは下ろしたリュックをガチャガチャとさせて、無数の爪がまとわりついた大砲のような、すごく禍々しいアートを取り出した。
「……あ、ゼンブ痛いのは間違いないと思うから覚悟してくれ」
「ま、参った! お、俺の負けだ!」
歓声が、炸裂した。
音量が大きすぎるせいで、うわんうわんとねじれて聞こえる。
エクレアはその歓声の中心で、両手をぱん――ッと打った。
水を打ったようにコロッセオが静まり返っていく。
「よーし。ついでだし、ここで次のリーダーを決めよう」
コロッセオの中心で、両腕を腰に当てる彼女は、にぃっと笑っている。
「――――ボクと戦いたいやつ、いる?」




