第87話:支配人は薄青の少女の心を踏みにじる。
「……あ」と思わず声が出た。
トイレの出口には、別の男が立っていた。
ガーゴイルのような長身の男は無表情の視線を僕に向けている。
「タカハさんですね?」
男は抑揚の少ない言う。
「……はい」
「自分はアークといいます。お嬢の頼みを聞いたコーデさんの命令で、タカハさんを案内するように言われています」
予定では、僕が外へ出て手招きをするはずだったが……まあ、許容範囲内。僕の心臓に要らない負荷がかかっただけだ。
「よろしく、お願いします」
脇にはじっとりと嫌な汗がわいていた。
男は無言で歩き始める。
僕は案内されている立ち位置で、歩を進める。
「まず大鷲の剥製。そのあと、リリアヌ画伯の大作『月』。ミッドクロウの陶器大壷の順で案内していただけますか」
「……心得ました」
エクレアとコロネちゃんによって予測された、秘密の資料が隠されてる可能性の高い場所を、僕は順に回った。剥製の奥の翼の下、巨大な絵画の裏側、大壷の台座……そういうのが、全部で7箇所。うち、3つに資料が隠されていたけれど、目当てのものではない。男が見ている手前、僕は内容を見るだけに留めて、それを戻した。
表向きの執務室にあるような資料は、騎士団が抜き打ちのチェックを行っている。
怪しい書類があるとしたらこういう隠し場所か、館の外ということになる。
結果として、僕の単独行動の収穫はなし。
ここで見つかっていれば、1番ラクだったんだけれど。
勝負は僕、プロパ、リュクスの3人がガレットの部屋に招かれてから、ということになった。
「ありがとうございました」
僕はアークさんに言って、部屋に戻してもらう。
誘導役が変わったことを不審がられることもなかった。おそらく、ローテーションの関係なのだろう。
「すごかったよ。トイレが2階にあったんだ」
僕はプロパとリュクスに気楽な口調で話しかける。
「おいおいタカハ、ジョークだよな?」
「本当。しかも、レバーを引けば、水が流れた」
「流れて……流すのか……。発想した人物は、精霊様の祝福を受けているに違いないな」
プロパは真顔で『星の祈り』を額に刻んだ。プロパだってエクレアの設計だということを知っているはずだ。僕は吹き出しそうになるのをこらえる。ふふん、と妖精種の王子様が鼻を鳴らす。
扉がノックもなく開けられたのはそのときだった。
若頭だ。
「お3方、『支配人』がお会いしたい、と」
――
広い部屋だった。
大窓は開け放たれていて、館の背後にある崖のような丘がすぐのところに迫っていた。
テーブルの上には美しい作りのティーセットが置かれている。
一方の側には、対象的な服装をした、よく似ている姉妹。
もう一方には――――大男。
その男を表現する言葉は多い。
大男、支配人、歓楽街の王、ファミリーの首領。
「私がガレットだ」
ソファから立ち上がった大男が穏やかに微笑みかけてくる。
人間の笑い方を覚えた雄のトドのよう。
しかし、その腹の底では狂気の線虫がとぐろをまいている、というわけだ。
僕たち3人は一般的な礼で応え、自己紹介をした。
「私は名前を覚えるのが苦手でね。忘れてしまうかもしれないが、すまない。……さあ、握手をしよう」
上等なイエルに包まれた太い腕が伸びてくる。上等な革の靴、上等なコート――それはハッタリでもなんでもなく、彼が稼ぎあげてきたすべての結果だ。
大きな手が僕たち3人の手を順につかむ。
上品な微笑を貼りつけたまま、ガレットは言った。
「3人とも、素晴らしい才能の持ち主のようだ」
僕たちの時間が凍りつく。
僕たちが騎士であることはバレてはいけない。
こういう形で査察をするのは、裏切りに近いからだ。
ガレットはゆっくりと息を吐き出した。
「犬人族の君は人と話すことが得意だろう。妖精種の君はつねに計算を巡らせている。私なんかが及ばないような素早い計算だ。そして、人間の君は――――武術……いや、魔法だな。優れた才があるんだろうね。『自分が戦いで負けることなんて万に一つもあり得ない』と思っているようだ」
心臓が凍えるような感覚がした。
なぜ……ッ。
「解析を使ったわけではないよ。私は握手をすれば相手のことがたいてい分かる。私は数えきれないほどの人間と握手をしてきたからね。女、男、若いの、年寄り、同性愛者、自殺したい人間、人殺しをしたい人間、私に歯向かおうとする者、従順な者、死体とさえ握手をし続けてきた」
言葉の抑揚を上手につけて、相手に無理やり言葉を聞かせる。ライモン公爵とよく似たしゃべり方をする。
僕は、聞き入ってしまう。
引きずり込まれるような感覚。
「君たち3人は優秀な、優秀すぎる戦士だ」
「ボクがお世話になってるんだ。当然だよ。ガレットさん」
「すばらしい友人たちじゃないかエクレア。領都から、わざわざ、来てくれたんだって……?」
「ボクとガレットさんの話をしたら、ぜひガレットさんに会ってみたいっていうからさ」
エクレアは微動だにしない。
けれど、その表情も、凍りついていた。
ガレットはゆっくりと言った。
「――――君たち3人が、そこに座る必要はないよ」
ツン、と空気が凍りつく。
ガレットの言葉はもはや客に向けてのそれではない。
「探しものをしていたようだが徒労だったね」
ガレットは上等なコートの胸元から、羊皮紙の束を取り出した。
「君たちが探していたものはここにある。……驚いているね。さすがの私も握手をしただけで目的が分かるわけではないさ。私が今ここにふんぞり返っていられるのは、すべて、私を慕ってくれる若者たちのおかげだ。私は彼らを裏切らない。彼らも、私に応えてくれる。…………そうだね? コロネ」
エクレアがゆっくりと首を妹に向けた。
薄青の髪と、オレンジの髪が、揺れる。
「ごめんなさい、お姉ちゃんっ」
白いドレスに身を包んだコロネちゃんは表情を消してすっと立ち上がり、ガレットの隣のソファにばふりと身を沈めた。まるで、初めからずっとそこに居たかのように。
「どこを探したのか知らないが、残念だったね。君たちが訪ねてくる前から、書類は私の手元にあった」
――――ざ、と足音が聞こえた。
3人か4人。
僕たち3人の後ろに並んだ、男たちだ。
ぴくりとでも動いてしまえば、やられる。
「パパっ?」と小鳥のさえずりのような声が響く。
「どうしたんだい? コロネ?」
コロネちゃんにガレットは微笑みかける。
「見せてっ?」
素早く。
躊躇いなく。
コロネちゃんはガレットの懐から羊皮紙の束を引き抜いた。
「ありがとうっ!」
コロネちゃんは立ち上がると、ニコニコしながらエクレアの隣に戻ってきて、それをエクレアに手渡す。
エクレアは回覧板を受け取るようにあっさりとそれを受け取った。
「サンキュー、コロネ。なになに……」
――――コロネちゃんが僕らの目的をガレットに明かしていたのは、作戦のうちだ。
ガレットには絶対的な傲慢がある。計画の一部を伝えたコロネちゃんが自分に忠実であると疑わない傲慢。狙われている資料をだれも知らない隠し場所ではなく自分の手元に持っておく傲慢。
その傲慢を読み切ったプロパの作戦は、ものの見事に成功した。
ぱら、ぱら、と羊皮紙のページが繰られる音だけが響く。
背景はぞっとするような無音だ。
だれも、なにも、言わない。
エクレア以外は。
「『ガルニの園』で5人。他の4つの店で3人、3人、2人、1人だから……14人か。儲かってるんだね、ガレットさん。収入のケタがおかしいだろ」
「……」
「で。ああ、現在2人をあんたが教育中なわけね。1人はもうすぐ『出せる』。もう1人は最近手をつけはじめたばかりなわけだ」
「……」
「コレは明らかな不正だぜ、ガレットさん。奴隷は公爵閣下の持ち物であって、あんたの持ち物じゃない。この情報をダレが知ったって、あんたは――――」
「コロネ」とガレットは言った。「なにをしてるんだい?」
「――――ひっ」とコロネちゃんの喉が鳴った。
僕でさえ、血の気が引いて、心拍数が上がって、冷や汗が手のひらににじむ。
「ダメじゃないか。それは、私の大切な資料なんだ。お前たちには決して見せたくないものだった。イタズラだというのはよおおおく分かっているけれど、私は少々、怒っているよ?」
ガレットの目はガラス球のようだった。
無表情な瞳。
透明なガラス球には、ときおり、色が交じる。
蓋をしても隠し切れない、怒りの赤色が。
「返してくれるかな? エクレア」
「……嫌だって言ったら?」
「君は大切なものを無くすことになる。知人の酒場も、友人も。そして、君だけは生かされる。私の、もとでね」
「――――ッ」
エクレアは羊皮紙を握りしめた。
小さな手がつかむ端っこが、ぐしゃりと歪む。やがて、その手がかすかに震え始める。
エクレアは真正面からガレットの視線を受け止めている。
震えるな、という方が無理な話だ。
とんとん、とプロパの足が僕の足に触れた。
僕は目だけを動かしてプロパを見る。
青い瞳の瞬きは、2回。
プロパのそのサインの意味は『作戦を中止して、全力で脱出する』だ。
男たちの拘束を振りほどき、3人の魔法で先制をしかければ、たぶん脱出できる。
――――けれど、僕は小さく首を横に振った。
まだだ。
まだ、エクレアは諦めていない。
「聞こえなかったのかい? エクレア?」
穏やかなのに、いやらしくて、威圧的な口調。
エクレアは――――完全に俯いてしまった。
震えは指先だけじゃなくて、肩にまで広がっている。
幼かったエクレアは、ガレットのこの口調に苦しめられ続けた。『ボク』と『わたし』。そんな分裂に、エクレアは成功していない。だって『ボク』のエクレアだって、ガレットに怯えていた。ガレットによく似た、大柄の肉体奴隷グラスリーに怯えていた。
それを、ガレットは分かっている。
分かって、小さなその心を踏みつけている。
土足で。
なじるように。
「ボク、は……」とエクレアが言った。
「うん? なんだい? エクレア?」
「ボ、ク、は……」
単位魔法を心の中で決めた。マナを知覚する。あとは両隣の2人に合図を出すだけ。
ただ、僕が願うのは。
『間に合え』という一心――――
その瞬間だった。
「エクレアぁ――――ッ」
この部屋の外から声がした。
「…………え」
エクレアが顔を上げる。
大窓の外をエクレアは見る。
フレーズ村を拡張する途中で切り開かれた丘。
その丘の中腹に、彼らが居た。
「「「エクレア――ッ!」」」
「エクレア様!」
「戻ってきてくれ――ッ!」
ボロい服を着た、男たち。
領都から僕が借りてきた、エクレアを慕う肉体奴隷たちだ。
……どうやら間に合ったらしい。
エクレアが今、1番会いたいのは、頼りにしたいのは、たぶん彼らだ。エクレアはずっと――肉体奴隷たちのためだけに戦い続けていたのだから。
「また見せてくれよ!」「魔法奴隷をぶっとばしてくれ!」「俺たちに休暇なんてないぞ!」「サボってんじゃねえ!」「あんた、実際かわいいと思う!」「てか好きだ――ッ!」「てめっ、どさくさに紛れて――」
「「エクレア――ッ!」」
その声は最後の一押しになるだろう。
傷だらけになりながら、自分の過去に向かって歩き続けてきたエクレアが、その核心にたどり着くための、最後の一歩に。
「…………目障りだ。やれ」
ガレットは低い声で言った。
壁際の男が1人、すっと部屋を出ようとして。
――――それを、よく通る声が遮った
「そう簡単にやれると思うなよ。ガレットさん」
ぶわり、と。
僕たちを取り囲む男達の間に、怒りの波のようなものが広がった。
その中心で、エクレアはうつむいている。うつむいたまま、表情を誰にも見せないまま、エクレアの口元だけが、にぃっと笑っている。
「アイツらを仕込んだのは、このボクなんだからな。アンタのところの兵隊に遅れをとるはずがないだろ?」
瞬間、ぴきりという音が聞こえたような気がした。
ガレットの瞳から無表情のガラスが砕け散った音。
不意打ちのような煽りに、冷静であり続けたガレットの理性が焼き切れる。
「小娘えええええ――――ッ!!!」
ソファから猛然と跳び上がったガレットはテーブルを踏みつけ、エクレアに掴みかかった。
だが――わずかに軸を外したエクレアが、その足元でガレットの立つテーブルをずらす。羊皮紙の束が舞い、雄トドの身体が宙を泳ぐ。
「お前らッ! 魔法は撃つなッ!」
コーデさんが鋭く命じた。
「これは親子喧嘩だ!」
す、すごい説得力だ。親子喧嘩って……。
でも、これはコーデさんが出来る最大限の援護射撃なのかもしれない。
避難してきたコロネちゃんはもちろん、僕たちも、ガレットの子分たちも動けない。
一瞬で、この場が、この空間が、コロッセオに変わる。
座っていたのと反対側のソファに顔から突っ込んだガレットは、身体を起こすと、猛然とエクレアに向き直った。
「らっ!」
それよりも早く、エクレアは黄色の風船のような袋を3個投げつけた。マスタード入りだ。あれが顔に直撃すれば決着。完ぺきな放物線を描いて、ガレットに向かった風船は――――クロスした太い腕にぶつかって全てが弾けた。
「小賢しい」とガレットが吐き捨てる。
決着は一瞬。
「…………あ」と僕の喉から声が出た。
一瞬で距離を詰めたガレットが、小柄な少女を抱えこんでいる。
この戦い、ルールはシンプルだった。
エクレアはアートのどれか1つをクリーンヒットさせれば勝ち。
ガレットは攻撃をエクレアに当てるか、拘束してしまえば勝ち。
今、ガレットはエクレアを抱きかかえている。
その腕の1本で、エクレアの胴体ほどの体積があるようにも見える。
体格の差は絶望的。
もう、逃れられない。




