第79話:「休んでいかない?」と猫人族のお姉さまが僕を誘う。
「…………なるほどね」
ひび割れた自分の声が、夜の生ぬるい風に吹き飛ばされていく。
転生してから13年間――ピータ村にいたその期間。
僕は日が落ちて少しすればすぐに眠り、日が上る少し前に起きる、という生活を繰り返していた。燭台を灯すための油だってタダではないし、自分の手元を照らし続ける便利な単位魔法も存在しない。太陽と同じ生活リズムが合理的なのだ、異世界では。
けれど、ここは違う。
フレーズ村は違う。
通りに設置された燭台は色をつけたガラスで覆われ、それが投げかける光が大通りを染め上げている。赤、ピンク、黄色、緑、青――さまざまな色の光に照らされ、大通りを行き交う人々の横顔は抽象的な絵画のようだ。
通りを歩く人たちは、みな、上等な服を着て――そして、仮面をつけていた。
目元を隠すだけで、その人がだれであるかわからなくなる。まるで領都の中みたいに、みな上等なイエルを着ている。市民がほとんどなのだろう。正騎士、従騎士ももしかしたら混じっているかもしれない。
大通りは細く、狭く、枝分かれしていく。
客は、異様な熱気で盛り上がっている賭博場か、立ち並ぶ酒場か、際どい服を着た客引きのいずれかにつかまり、夜に消えていく。
――――歓楽街。
フレーズ村の『裏』を示す言葉として、これ以上に適切なものはない。
領都からの距離は馬で1時間ほど。市民たちをメインの客層に切り替えたこの歓楽街は、数年で急成長を遂げている、らしい。
「あふ……」
あくびがこぼれた。
キャリアに刃こぼれの1つもない15歳の優等生には、眠い時間だった。燭台が投げかける派手な色の光のせいで目だけが冴えている。安っぽいモニターを見続けたあとの、あの嫌な感じ。
僕はこういったところの遊び方がよく分からない。
前世で、バイト先の店長だった中澤さんのおごりで、きれいなお姉さんとおしゃべりをするような店に何度か行ったことがあるけれど、僕のバイト代の価値を一撃で粉砕するようなお会計の額面を見てからは誘いを辞退していた。
まあ、今日はいつもどおりの聞きこみで行こう。
とりあえず、僕は大通りを歩く。
仮面をつけていない僕は珍しいらしくて、視線を感じる。
大きな賭博場はしん、と冬のように静まりかえっていた。ここぞの大一番が行われているようだ。
重厚な木製の扉の酒場がいくつか並んでいて、その中からは怒号と美味しそうな料理の匂い。
このあたりは歓楽街の入り口なのだろう。
歩を進めていくうちに、色付きランプの燭台がさらにどぎつい色に変わってきた。
……あ。
店の前で立っていた女の人と目があう。
「こんばんは、お兄さん」
猫人族の女の人。
少しかすれた声は、幼い口調だった。
けれど、見た目の印象は『幼い』の正反対だ。襟ぐりの深いドレスからは豊満な胸元が見えて、化粧もハデすぎない感じが絶妙。何歳なんだろう……という思考は分断されていく。エサを与えられてヨダレを流す犬のように、僕の中の男の部分が反応している。
戻ってこい理性。
今は、遊びにきたわけではない。
……そして、そんなに軍資金があるわけでもない。涙。
「こんばんは、お姉さん。いい夜だね」
「遠方から来たんでしょう? 休んでいかない?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……なあに?」
僕はその手にいくつかの硬貨を握らせた。
彼女は驚いた表情をして僕を見、営業スマイルを消すと――いたずらっぽい表情を浮かべた。
「なんでも訊いて。なんでも答えるから」
「エクレアっていう女の子を探してるんだ」
「あら、エクレア? 青い髪の? ……運がいいわね。最近、帰ってきてるみたい。もう少し大通りを戻ったところの酒場、『コンラド』で働いてるわよ」
おお……あっさり。
「訊きたいことってそれだけ?」
「うん。ありがとう」
「じゃ、これは返すわね」
猫人族の彼女が僕の手を握った。
「え?」
硬貨が押し返される。
柔らかい手つきのまま、猫人族の彼女は僕の二の腕に触れた。
「騎士様ね?」
「……分かるんですか」
「剣を振るとココが鍛えられるってきいたことがあるの」
「へ、へえ……」
「腕だけじゃないわ。背中やお腹、太ももも、騎士様は……すごく鍛えられてる」
「は、はい」
ふふ、と猫人族の女の人は笑う。
「仮面をするのがオススメよ。あまりいい目はされないでしょうから」
「……どうして僕にそこまで」
「素敵な騎士様だから」
彼女は自分の名前を僕の耳元で囁くと、呆然とする僕を置き去りにして、気まぐれな蝶のように夜の間に消えていった。
……いかん。
あやうくリピ決定しているところだった。
僕は首をぶるぶると横に振って、大通りを引き返した。
――
酒場『コンラド』は怒号の弾ける賭博場の近くにあるわりには落ち着いた店だった。
上品な香水の匂いと、本のページを繰るような客同士の会話、深い色のテーブルや椅子でまとめられた店内。
「いらっしゃいませ!」
とててっ、と僕に駆け寄ってきた店員の少女は――――
残念ながら、この店の雰囲気とはミスマッチだった。
黒白のチェック柄のティーガに身を包んだ少女は、珍しいオレンジ色の髪と瞳をしている。明るい笑顔が眩しい。
僕は絶句していた。
よく似ていたのだ。
髪の色は全然違うけれど、柔らかそうな肌や、鼻の形がよく似ている。
探している薄青の髪の少女に。
「……お客様、お金はお持ちでしょうか」
少女は小さな声で言った。
僕は微金貨を取り出す。僕の給料2ヶ月分。
「これでどのくらい居られる?」
オレンジ色の少女は驚いているみたいだった。
「3日3晩飲んで食べても大丈夫です!」
「じゃあ、カウンターがいいな」
「はいっ!」
カウンターには深い色のローブに身を包んだ上品な老人が1人。小麦色の蒸留酒をストレートで煽っている。15年ぶりくらいに酔っ払ってみようか、と思う。
ほっそりした妖精種のマスターは女性だった。ざっくりアップにしている金髪と、無造作な腕まくりとは対象的に、丁寧な手つきで料理を仕上げていく。
僕はしばらくその手さばきを見とれていた。
「あちらの4人組に。こぼすんじゃないよ、コロネ」
「はーいっ!」
コロネと呼ばれたオレンジ色の髪の少女は、慣れた手つきでトレーを持ち上げ、カウンターから出て行った。
「領都出身かい? お客さん」とマスターが話しかけてくる。マスターの微笑には試すような視線が混じっていた。
「北東域からです」
「おや。ずいぶんと遠くから」
「なので、最初は南東域の味が分かるような飲み物を」
「気合が入るねえ」
マスターは一瞬だけ手を止め、メニューを決定したようだ。
いくつかの瓶を自分の背後の棚から集める。
「若いみたいだけれど、遊びにきたのかい?」
「あー、えっと……遊びにではなくて、人探し、ですね」
「そうかい。『フレーズ村では一晩で一文無しになっちまうこともある』っていうのは要らない忠告だったね」
僕はこの店を教えてくれた猫人族のお姉さんを思い出す。そして、その後ろで深く広がっている暗い大口を想像した。
……まあ、僕のような素人はやめておくに越したことはない。
「人探しっていうと、この村の人間だってのは分かってるのかい?」
「ええ」
「ふうん。……よし、これをこちらのお客さんに」
「はい」
僕の眉だけがピクリと反応した。
カウンターの向こう、僕からは見えない角度から聞こえた店員さんの声を――僕は知っている。僕の横から近づいてくる足音にも、どこか聞き覚えがあった。
「どうぞ、コンラドです。麦の蒸留酒に、特産のレモニアの果汁を絞った口当たりのいいカクテルで、うちの店の名前の、由来に、も――――」
「ありがとう」
僕は横を見て、少し驚いた。
薄青の珍しい髪はふんわりとアレンジされていて、小柄だけれど快活な店員、というイメージを加速させる。白黒のチェック柄のティーガと短めのスカート。
女の子っぽい服装は、――「ボクはオトコだ!」と主張してやまない彼女には残念なほど、よく似合っていた。
会えた。
間違いなく、エクレアだった。
薄青の目は大きく見開かれている。
「……なんで、タカハ」
「約束をすっぽかされたからね」
「違っ、います。あれには、理由があって」
ほほう。
敬語ですか。
そうか、僕は客で、エクレアは店員なのだ。
「制服がよく似合ってるね、店員さん」
「……ッ!」
エクレアはぺこりと一礼すると、頬を赤くして、慌てた足取りでカウンターの向こうに引っ込んだ。
「くくっ」と女マスターが笑う。「いやはや。こいつはいいものを見た。少年、そういうことかい?」
「はい。そういうことです」
妖精種の女マスターは肩をすくめる。
仕草だけじゃなくて、口元の笑みまでクールだった。
「あたしはシフォン。この店を仕切ってる。けっこう遅くまでやっててて、あの子にも、最後まで働いてもらってるんだよ。……くつろいで待ってておくれ。サービスするからさ」




