第73話:「鍵となるのは算数じゃ」と老魔法使いは言った。
「ねえちゃん、へんな色の髪~」
「こら。オマエら離れろって。ボクはオモチャじゃない」
「ポケットからへんなの出てきた!」
「なにこのメガネ~」
村人の1人に呼ばれて正門へ向かうと、珍しい光景が広がっていた。
毛糸の帽子をかぶっているせいで雪の妖精のように見えるニン村の子どもたちが、エクレアに群がっている。ツナギのありとあらゆるポケットに手をつっこまれ、ゴーグルは引っ張られ、薄青の珍しい髪は弄ばれていた。子どもが相手だから反撃することもできず、エクレアはたじたじだ。
「た、タカハ。見てないで助けてくれ!」
「ねえちゃん、なんでボクって言ってるんだ?」
「私って言ったほうがいいよ~」
「女のコでしょ~?」
「みんな……ボクの深い闇を知りたいのか?」
「――君は子ども相手になにを言ってるんだ」
「あう」
僕はなんとか子どもたちを説得し、彼らからエクレアというオモチャを奪還することに成功した。
「ったく。あー。肩が痛い。アイツら遠慮なく腕を引っ張るからさー。次のアートの実験台にしてやる」
さすがに……本気じゃなさそうだ。
村へ戻っていく子どもたちを見送るエクレアは穏やかな表情をしている。
……それにしても。
エクレアは本当に小さい。ちっこい、といったほうがニュアンスとして伝わるだろうか。身長もそうだし、ツナギのような服のサイズがあっていないのが理由の2つ目。3つ目は大きすぎるカバンのせいだ。獣の皮から作られた立派な一品だったけれど……うん、初めての遠足に張り切りすぎてパパのカバンを背負ってきてしまった小学生にしか見えない。
「ん? どーした?」
こくり、と首をかしげたエクレア。
早く出発しようぜという顔をしている。
……仕方ない。
遠足前のチェックリストを確認しておこう。
「エクレア、忘れものはないかな?」
「お? ……おお! バッチリだぜ!」
「おやつは持った? 最大でファムの実3個分までだけど」
「そっちもバッチリだ!」
「トイレは大丈夫? 長くなるから行っておいた方がいいよ」
「――よぉく分かった。そんなに死にたいんだな」
がしゃん、とカバンを放り出したエクレアは、その中からトゲトゲして禍々しい感じのアートを取り出そうとして――――だが、村の広場の方で遊ぶ子どもたちを見て、カバンにしまい直した。
「こいつは……ちょっとコドモには見せられないな」
「そんなヤバイの作っちゃダメだ!」
「ボクの身長のことをバカにしたやつの末路は悲惨だぜ。村を出たら覚悟しとけよ」
「う……」
エクレアは、にししっと笑った。
だが――その笑みをすぐに消す。
「シゴト中に迷惑かけるよ、従騎士サマ」
僕もまた表情を引き締める。
こういうとこ、エクレアは意外と律儀だ。
「……気にしなくていい。僕も領都に帰る用事があるから」
「はっはーん、見えたぜ読めたぜ閃いたぜ。さてはオンナだな?」
「だったらいいんだけどね。怖い顔をしたおじさんたちに呼ばれてる」
「おいおい」
エクレアは若干顔をひきつらせ気味に言った。
「オトコ好きって言ってたけど、マジでそーいうのが趣味なのかよ」
「そもそも『オトコ好き』って発言が冗談だったんだよ!」
――――騎士団長と老魔法使い。
怖い顔をした積極的には会いたくないおじさん2人によって、僕は領都に呼び出されていた。
そのついでに、北西域での目的が終わったエクレアを領都に送る、というのが今回の目的。
「馬車を借りてくるよ」
「おー、待ってるぜー」
「いい? お菓子くれるって言われても知らない人についてっちゃダメだからね?」
「タカハてめえいいかげんにしろよっ!」
終始そんな感じの領都までの馬車旅が続き。
エクレアを肉体奴隷たちの仕事場に下ろす、その直前、少しだけ真面目な話をした。
「タカハにはタカハのやることがある。それはボクだってそうだ。ボクは肉体奴隷たちが魔法使いに立ち向かえる力を探す。そんなボクについてきてくれてる、バカなやつらがココで待ってるからさ」
「……北西域で、収穫はあった?」
「なかったはずないだろ?」
――
僕は領都へ帰ってきたのは第2月の初日だった。
北西域と違って雪のない領都はそれでも真冬だ。夜ともなれば、コートを切り裂くような寒気が美しい街並みに蓋をする。
そんな夜だからだろうか、魔法奴隷の住区にある酒場は大勢の客で賑わっていて――僕とゲルフの会話が盗み聞き心配はなさそうだった。
「一仕事任せたい」
ゲルフは声をひそめるでもなく、堂々と言った。
「先ほど話題にのぼった肉体奴隷の少女――エクレア、といったか。その娘、どのくらい信頼がおける?」
……なるほど。たしかに、『軍団』の構成員に、肉体奴隷はいなかった。
「ワルイヤツではないと思う」
「ふむ」
「仲間に入れたい、ってこと?」
「まあ、端的に言えばな」
僕は少し、考える。
「頭はよく回るし、あの環境でずっと生き延びてきた子だから……『最後まで態度を表明しない』ってのがいちばん賢い立ち回りだっていうところまでは、すぐに計算しちゃうと思う」
「それで構わぬ。最後の最後、われらに加担してくれれば、それは大いに価値のあることじゃ。肉体奴隷たちとの接触をはかるのに難儀しておってな。……お前の判断に任せる。もしその娘に肉体奴隷たちとのツテがあるのなら、とりつけてほしい」
ツテ、というより、エクレアが命令すれば大量の肉体奴隷たちが動きそうな印象すらあるけれど……。
「分かった。会ってくる」
「手間をかけるな」
「……そうだ、会ってくるといえば、北西域の『虹の大魔法使い』の件だけど、その後任になってくれそうな人を見つけた」
「北西域を束ねられるような大魔法使い、ということか? む? 北西域には二つ名をもつ魔法使いはおらなんだような気がするが……」
「ウィード様の弟子だよ。称号はないけど、ゲルフだって知ってる魔女。だれだと思う?」
「ええい気になるではないか。もったいつけるな」
「メルチータさん」
ゲルフの目が大きく見開かれた。
「メルチータ、じゃと? なぜ北西域に?」
「ウィード様がやってた孤児院を経営してたんだ。この十数年間ずっとね。孤児院の子どもたちが大きくなって彼らに孤児院をあげたから、今は魔法の道に戻ってる」
「……そうか」
ゲルフは深く頷いた。
「激しい気性は変わらぬのか?」
「それが真逆。孤児院の子どもたちにからかわれるような始末でさ。すぐに照れて赤くなるし」
「……なんと」
ゲルフは顎が落ちそうな表情をした。
そんなにキャラが変わってるのか……。
以前のメルチータさんを見てみたい。
「魔法を引き算すればなにも残らぬ、と思わせるほどに打ちこんでおったからな、メルチータは。かつてのわしによく似ておる。……何系統の使い手なのじゃ?」
「4系統。土、火、風、空」
「十数年の空白を経てそれか。やはり飛び抜けておる」
そして、僕の『対訳』は、そんなゲルフやメルチータさんの脇を片足スキップで追い越すような、圧倒的な反則だ。
「それで、メルチータさんと一緒に試したことがあるんだけど」
「む?」
「僕は聞いたこともない精霊言語を言えたんだ」
ゲルフの表情が凍りついた。
「……そうか。……そうじゃ。……なぜわしは気づかなかった! なぜわしはその可能性を試そうとせなんだのじゃ……! お前に授けられた祝福は初めから圧倒的であっというのに……!」
「え? ……え?」
懐から羊皮紙を束ねた手帳を取り出したゲルフは、猛然とそれをめくり続けた。目当てのところにたどり着いたのか、ゲルフはそこに書いてある文字をたしかめ、深く頷き、息を吐き出す。
僕は、ゲルフのテンションの高さの理由が分からない。
「…………なんと言えたのじゃ?」
「ええと……識属性の訛りで、〈彼方に〉」
「……その発音は、たしかにムーンホークには残っておらぬ。少なくともお前が耳にする可能性は無かったはずじゃ……ううむ……」
ゲルフは深く長い息をつき、黒い小さな瞳でまっすぐに僕を見た。
「いずれその祝福は、駐屯任務で教育を広めるのと同様に、魔法使いたちに還元してほしい。精霊言語は失われる一方じゃったからな」
「もちろん。『軍団』のメンバー優先で広めるよ」
「それはおそらく悲願の成就した後、ということになるじゃろう。大いに価値のあることじゃ。……が」
「が?」
「その力、正しく応用すれば――お前個人の戦闘力を飛躍的に高めることができるやもしれぬ」
「……え?」
「あくまで可能性じゃ。長らく考えておったことがあるのよ。今のお前の話を聞いて、確信を持てた。わしの仮説が正しければ、魔法使いとして強くなるどころではない。
お前は魔法使いを超えることができる」
「……どういうこと?」
「今は……言えぬ。その鍵となるのは算数じゃ」
それきりゲルフは羊皮紙の手帳に視線を戻す。
もったいつけるな。
そう言ったのはゲルフだ。
でも――こと魔法に関して、ゲルフはどこまでも合理主義だ。ゲルフが言うべきでないと思ったことは、大抵、僕が知るべきではないこと。
それを無条件に信じられるくらいには僕はゲルフのことを信頼していた。
僕の戦闘力を飛躍的に高める。
魔法使いを超える。
鍵は算数。
数字。
…………ん。
「…………もしかして」
僕はある考えを告げた。
ゲルフが目を丸くする。
「うむ。そうなるはずじゃ。理屈の上ではな」
仮説は当たった。
これなら。
たしかに僕は魔法使いを超える。
「分かっておると思うが、お前がすでに7系統を操ること以上に危険な知識じゃ。失敗する可能性もある。他の魔法使いに相談するのを待ちなさい」
ゲルフの言葉に僕は頷いた。
――
久しぶりの緑色騎士団本部は、記憶の中と雰囲気が明らかに違っていた。
正門をくぐり、運動場ともいえるスペースを横切って隊舎へ向かう。
その過程で、何人かの従騎士とすれ違った。
同級生の従騎士は言うに及ばず、先輩――つまり、正騎士になることを目指している第3階以上の従騎士――たちですら、僕を見るたびに驚いたような表情をして、さっと顔を背けていく。
僕は従騎士試験を受けに来た日を思い出した。
ティーガを着ていた僕は、市民出身のみなさまに盛大に馬鹿にされたのだ。
「……また、やらかしてるのか?」
いやいや。
ちゃんとイエルを着ているし、上から羽織るコートの着方だって問題ない。僕の緑のコートは使い込まれてこなれた感が出ている。洗濯をしてもとれない汚れと、なにかに引っかかって破れた部分がかなりいい味を出している。対して、領都に半年いた従騎士たちの緑のコートはすごく綺麗だった。……あれ? そういうこと? 結局見た目なのか……。
僕はしばらく、従騎士たちの冷たい対応の理由に思い当たることができなかった。魔法奴隷出身だから慣れていて、だから受け流してしまったというのもあるけれど。
僕は隊舎に入る。
隊舎は正騎士たちの仕事の拠点とでも言うべき場所で、当然、正騎士たちが多い。
そこでの対応は正反対だった。
「おっ」と顔見知りではない正騎士に驚いた表情をされた。
すれ違った別の正騎士に、肩を叩かれた。
「『暁の従騎士』殿!」とおどけた言葉をかけられた。
「ふんっ」と目の前で鼻を鳴らしたのは――――プロパだった。
少し背の伸びた妖精種の少年は、王子様のような顔を皮肉っぽい表情で歪ませている。プロパは「……タカハにしてはいい仕事だったな」と早口で言って通り過ぎていった。
そこへきて、僕は、ようやく理解した。
「あっ! タカハ~!」
僕に駆け寄ってきたのは、公爵閣下の七男、従騎士で同期のリュクスだった。犬人族のリュクスは、半年会わなかっただけなのに、顔の輪郭がさらにシャープになっている。きっちセットした黒の長髪に、整えられたおにぎり型の耳が相まって…………かなりのイケメンだった。くっ。ボキャブラリーの敗北。僕はリュクスに対して抱く印象を他の言葉にできない。
リュクスはぱたぱたと嬉しそうに揺れる尻尾が透けて見えるような表情で、僕の前に立った。
「お手柄じゃん。――みんなビビってるよ」
元騎士ファラムと徴税官ニンセン。
2人の不正を暴いたことは、僕が想像していた以上の手柄だったようだ。
従騎士たちが顔を背けたのは嫉妬から。
正騎士たちの明るい対応は賞賛から。
僕は、そのどちらの感情も向けられたことが少ないから、正直、戸惑う。
「……お手柄って、そんなに?」
「正騎士全体でも見ても1年に1度ってレベル、かな」
リュクスはキョロキョロと周囲を見渡した。
近くに騎士たちの姿はない。
リュクスはさらに声を低くして言った。
「騎士団長は市民たちの不正を暴く機会を狙っていたらしくてさ。今回のタカハの1件で、ムーンホーク城の中での序列みたいなのがかなり変わったんだ。……今回の不正を計画した、トップの名前は知ってる?」
「ええと、デューク……」
「近衛侍史のデューク=レイン氏。上に取り入るのと、手下を集めるのが抜群に上手い人間のおじさんだ。いや。だった、かな。俺もあの人の立ち回りからいろんなこと勉強させてもらった。ライモンのおっさんもかなり信頼してたんだよ。それがひっくり返った」
「集める手下の質は選んだほうがいいと思う」
「くくくっ。タカハはさ、ときどきブラックなジョークを言うよな」
「見苦しいことこの上なかったからね」
「結果としては、いい牽制になったんだ。『騎士団にはデューク様の計画だって暴けるような実力があるんだ』って市民出身の文官たちはみんな思ってるはずだから」
そこまでの影響があったとは……。
偶然だった、とは言わないほうがいいのだろう。
「リュクスのアドバイスのおかげだよ」
「え?」
「『文官に会え』。そう言ってくれたのはリュクスだからね」
リュクスは驚いたように目を見開いてる。
「……ったく、タカハは相変わらずだな」
「ん? どうしたの?」
「なんでもない」
リュクスは苦笑した。苦笑すら様になっている。
「アドバイスついでに、タカハ、覚えておいてくれ。今回の一件でタカハの名前はけっこう広まってるんだ。『暁の従騎士』様っていう通り名と一緒にね」
「……もしかして、恨まれてるってこと?」
「まあ。少なくない人数には」
リュクスは、虫の羽音よりもかすかなささやき声で言った。
「市民出身の騎士の中でも、とくに、――副団長の騎士エリデには気をつけて」
「騎士エリデ……?」
「エリデ=レインが市民だったころの名前だよ」
僕がとっちめた市民は、デューク=レイン氏だ。
……嫌な感じのつながり方をした。
「血縁としてはだいぶ遠いんだけどさ。快く思っていないといえばあの人だろうね。気をつけた方がいい」
リュクスは声のトーンを戻した。
「でも、そういうの以上に好意的な意味で従騎士タカハの名前を覚えてる正騎士が多いから安心して。……あと、北西域でも色々やってたらしいね? 村長会議のとき話題になってたんだ。すごい従騎士様が1人居るってさ」
ここまでのところ、僕は4つの村で任務をこなした。どの村長とも顔見知りになれたし、今でも多くの村人たちの名前を覚えている。パルム村なら、もしかしたら全員の名前を言えるかもしれない。
自分の行動がぐるりと他人をひと回りして伝えられるというのは、不思議な感覚だった。首のあたりがかゆいような感じ。
「ニヤけてるよ? タカハ」
イタズラっぽい表情を向けられ、僕は顔を引き締める。
「2人はしばらく領都にいるの?」
「あ。俺とプロパ? そうだね、俺はずっとこのへんでの任務だし、プロパも今はムーンホークの中で招集の手伝いをやってるんだ。タカハはどのくらい居るの?」
「ほんと数日のうちに駐屯任務に戻ると思う」
「じゃあさ、今晩、ごはんでもいこっか」
「お、いいね」
「決まりだな。またあとで宿舎に寄るよ。プロパは引きずってでも連れてくから」
リュクスは最後までニコニコしながら去っていった。
さて、プロパをからかうパターンを考えておかないと……と思考を脱線させたところで、声をかけられた。
「従騎士タカハ」
穏やかな声は、僕の真正面から。
その声の主を認めた瞬間に、僕は素早く騎士団の礼を向けていた。
……まさに、噂をすればなんとやらだ。
「お疲れ様です、――副団長」
見る。
見上げる。
灰色の、毛量が多い髪と、そこ埋もれるようにしてある猫耳。顔は大きめで、パーツが顔の真ん中に集まっているような感じ。といえば、愛嬌があるような感じがする。それは間違いじゃなくて、事実、この人は基本的にニコニコしていることが多い。物腰も柔らかだ。
緑色騎士団に3人いる副団長の1人。
正騎士エリデ=レイン卿。
でも、さっきのリュクスの話を聞いてから、僕はどうしても――悪役の膝の上で喉を鳴らしているペルシャ猫、という印象を受けてしまう。
「はい、お疲れ様です」と騎士エリデ。
微笑む目元にも、愛嬌のある顔立ちにも、僕は身構えてしまう。
「今回の1件、私の身内が迷惑をかけました」
「――!?」
言って、騎士エリデは――深々と頭を下げた。
騎士同士の敬意の表現は『騎士団の礼』と表現させるシンプルな礼で行われる。これは目下の者が目上に向けるだけと決まっていて、正騎士が従騎士に礼を向けることなどほとんどあり得ないと言ってもよかった。
しかも、僕は魔法奴隷の出身。
副団長は市民の名家の出身だ。
周囲で雑談をかわしながら歩いていた騎士たちが凍りつく。
「や、やめてください、副団長」
僕はその大きな肩に触れた。だが、騎士エリデはまるで大岩のように、しばらくその姿勢を崩さなかった。
本当に長過ぎる数秒間を経て、騎士エリデは顔を上げる。
表情は先ほどまでと少しも変わっていなくて、どこか不気味だった。
「これからの騎士団はもっと奴隷たちに寄り添っていかねばなりません。あなたのような若くまっすぐな力が騎士団には必要です。騎士団長も、あなたのことを高く評価している」
「……ありがとうございます」
「では。これからも活躍を期待しています」
僕のすぐ横を、緑のコートをたなびかせながら騎士エリデが通り過ぎる。
わきのあたりに嫌な汗がわいていた。心拍数も高い。
さっきの副団長のセリフは皮肉と取るべきか、それとも、文字通りの意味なのだろうか――――。
そっと振り返って騎士エリデの様子を見る。
隊舎の玄関に向かった騎士エリデはハンカチを取り出し、ぐいぐいと肩のあたりをぬぐっていた。
その意味をはかりかねて、僕は思わず2度見してしまった。
だって。
…………ああ。
そういう、こと。
あれは、僕が触ったあたりだ。
魔法奴隷出身の従騎士の手が触れた部分だ。
騎士エリデはまるで落ちないシミを相手に格闘するように、何度も何度もハンカチを動かしながら、玄関をくぐり抜けていった。
「…………」
ため息をつく。
好きにすればいいと思う。
僕も、好きにさせてもらうつもりだから。
――
騎士団長の用件は、ニンセン徴税官に関するその後の顛末の話だった。
あの日、その場で簡単な尋問を終えた騎士団長たちは、捕虜の2人を連れ、騎士団本部に戻った。その後、ニンセンが自白した関係者のもとを電撃的に調査し――その不正を暴くことに成功したようだ。
公爵の側近に近い立場だった近衛侍史デューク=レイン氏を始め、数名の文官や市民たちによって計画されていたのは、『税を不正に利用し、自分たちの懐に利益が転がり混んでくる別荘地を建設する』……という、頭のネジが17本くらい外れている計画だった。
ちなみに、計画に参加した文官たちはいずれも、公爵閣下が領都内に貨幣経済のプロトタイプを導入したとき、立ち回りに失敗し、財産を大きく目減りさせた市民たちだったようだ。お前らの財産なんて知ったこっちゃない。関係のない他人を巻きこむなと僕は言いたい。
「1晩のうちに素早く決着させた手腕は、騎士団の中でも高く評価されている。肉体奴隷を連れ歩いていたことも……まあ、今回は目をつぶろう。お手柄だったな、従騎士タカハ」
「……ありがとうございます」
騎士団長は大きく1度頷いた。
「団長」
「なんだ?」
「団長は、今回の不正を、どうお考えですか」
「決まっている」
騎士団長はすぐに返事をした。
「先代公爵が王都を真似て生み出された市民という階級が諸悪の根源だ。彼らは、自らの身内を文官に採用するシステムを構築しつつある。本来、文官の仕事は招集で戦い抜いてきた優秀な魔法奴隷によって行われていたのだ。……そうであったならば、今回のような不正はあり得なかった。そうだろう?」
「……おっしゃるとおりです」
団長の言葉は筋が通っているように聞こえる。
けれど、僕の心の中は、違った。
同じことは市民出身の騎士にだって言える。
だって、今回と同じような事件を騎士が起こさないってどうして断言できる?
「これからも騎士団のために尽くしてほしい、従騎士タカハ。君の力は、これからの騎士団に必要だ」
正義感にあふれ、意志が強く、頭のいい騎士団長は。
でも――騎士団という場所に忠節を誓っているのだ。
その批判的な思考が少しでも騎士団の中に向けられているのなら、市民出身の騎士たちの専横に気付かないはずはないのに。
「もったいないお言葉です、団長」と僕は言った。




