第6話:「算数を、教えて……?」とねこみみ少女が目を輝かせる。
「……最悪だ」
6歳になった僕は、ピータ村の南東にある『半湿原』の入り口へ向かっていた。
森の中でも夏の太陽は容赦なく僕をあぶってくる。背負っているカゴは粗末な作りで、体が揺れるたびに木のささくれがチクチクと背中に刺さるし、紐が肩に食いこんでくる。
「あッ!」
茂みに隠れていた岩に足をとられ、僕は前のめりに倒れた。とっさに突き出した両手がべったりとした土に埋まって、全身が泥まみれになる。口の中にまで侵入してきた泥を吐き出しながら立ち上がる。
両手を近くの木の幹にこすりつけ、僕は歩くのを再開する。
目的地はすぐそこだ。
『半湿原』の低い木々から集めてきたシーハの実が大きな山を作っている。
その山の前で、黒衣の老魔法使いが黙々と木の実のヘタを落としていた。
「――――もう2往復じゃ、タカハ」
顔を上げることもなくゲルフは言った。
限界だった。
「やってられないよ! こんなこと!」
僕は背負っていたカゴをゲルフの足元に投げつける。
ゲルフがゆっくりと振り返り、僕を見た。
「……」
その黒い瞳の中に何の感情も見つけられない。
首筋がちりちりと焼けるような感覚がする。
「ならば今日はもうよい。戻りなさい」
「……ッ」
僕はつま先を返し、一気に走り出す。岩がちなエリアを駆け戻り、森の中を風のように走る。
一度、僕は足を止めて振り返った。
どこまでも深い森がそこにある。
手のひらをきつく握りしめる。
――僕は6歳になった。
「異世界転生なんて……」
言葉を得た1歳。
歩けるようになった2歳。
トモダチができた3歳。
「……異世界転生、なんて……」
手先が思い通りに動かせるようになってきた4歳には、僕はもうシーハの木の実の簡単な加工ができた。
5歳。自分の足で歩き回ったピータ村の地図を大きな1枚の羊皮紙にせっせと羽ペンで描いたときには、突き放すように残酷で、突き放すように美しい自然に満ちあふれたこの世界を、僕は好きになりかけていた。
けれど、――――6歳。
「異世界転生なんて…………最悪だ」
冷静に振り返れば、ファンタジー系の異世界に子どもとして転生してしまった、という時点で予測しておくべきだったのかもしれない。
今の僕の立場を簡単に説明すると、『過酷な肉体労働に従事させられる6歳男児』だ。
しかも賃金ゼロ、起きている時間は基本的に作業、残業マシマシ。ブラック企業も真っ青な勤務体系。
僕が拾われたピータ村では、6歳になると子どもは単なる子どもではなくなる。大人になるための助走期間――村の仕事の『お手伝い』が始まる。男の子は狩猟団を手伝い、女の子は村の近くで行う採集や野草摘み、機織りなどを教わる。
そこまでは、まだいい。
納得もできる。
だが、問題は――僕を拾ってくれた老魔法使いゲルフだった。
家長であるゲルフは、言ってしまえば僕の雇用主だ。仕事の量はゲルフによって決められる。
……そう。
ゲルフは他の6歳の子どもと比べて、数倍の量の『お手伝い』を僕にさせていたのだった。
狩猟団員全員の防具の手入れや大量の毛皮の仕分け、今回のような過酷な量の木の実運びは、じつは日常茶飯事だったりする。シーハの実を運ぶのは大人の狩猟団員でも嫌がるような重労働だ。今日はすでに村と『半湿原』を3往復していた。2往復で大人の男だって根を上げる。まったく正気とは思えない。
……まあ、僕が使うカゴは小さいし、体力がついたのか、最近は慣れてきたけどさ。
「とにかく、全部、全部、ゲルフが悪いんだ。ゲルフに拾われなければ、僕は今ごろ――!」
言いかけて、思い知らされる。
ゲルフが拾ってくれなければ――僕はあそこで痩せ細って死んでいたに違いない。
僕が『捨てられていた』という場所にいつか連れて行ってもらったことがある。『北の果ての森』。木の実も獣も少ないあの一帯はピータ村の狩猟団が敬遠する森だった。ゲルフが通りかかったのは偶然以外のなにものでもない。
そんな僕を拾って育て上げてくれたゲルフは、命の恩人で。
「はぁ……」
そうはいうけど。
……働きたくない。
だって、お金がもらえるわけじゃない。要するに、バイト代が食事であり、清潔な服であり、暖かい寝床なのだ。前世で当然すぎるほどにありふれていたそれらを手に入れるために、僕はひたすら、働かされているのだ。
「はぁぁ……」
僕はまだ6歳だよ?
そのへん分かってる?
――
村の広場に戻ってきた。
「タカハだ!」
そこで、元気いっぱいに名を呼ばれて顔を上げる。
声の主を認識して、僕は両手で顔を覆いたい気分になった。
「…………プロパ」
広場の方から少年が僕の方へ走ってくる。金色の髪が太陽の光の中を踊り、青い大きな瞳がくりくりと輝いていた。とんがった耳は妖精種の証だ。
名前はプロパ。僕と一緒に奴隷印を刻まれた三人の同い年のうちの一人だった。
王子様は僕の目の前で足を止めると、ニコニコと笑いながら言った。
「また、ゲルフさまのおてつだい、やめてきたのか?」
ぐりっといきなり来た。ついさっきまで罪悪感を噛みしめていたから僕のダメージはなおさらだった。基本的にプロパは僕に対して強気で皮肉を言ってくる。6歳男児のウザさは底が知れない。
「も、もう終わったんだよ」
「うそだね。だって、タカハ、カゴもってないもんな!」
「カゴは置いてきたの!」
「へー。そーなんだー」
「プロパは? どうなのさ?」
「オレ? オレはもうおわったよ。ふふん、あたりまえだな」
「……はいはい」
「でも……タカハ、ダッソーだけはするなよ?」
「なんで? しないよ」
「ダッソーしたら騎士さまにつれてかれるからな!」
「わかってるってば」
「……ほんとに?」
王子様はいつもの強気な態度がなりを潜めて、どこか不安げに僕を見つめていた。どうやら僕の表情はそれだけ暗かったらしい。
――――脱走したら騎士様に殺される。
それは僕たちの現状を表現する一番シンプルなフレーズかもしれない。
ピータ村に住む人々は例外なく肩に奴隷印を押されている。ゲルフも、ソフィばあちゃんも、プロパも、僕も、『魔法の国』の奴隷という立場だ。そんな僕たちには許可なくピータ村を離れる権利がない。その許可を下すのが騎士であり、許可なく脱走した奴隷に罰を与えるのもまた騎士だった。
「……僕は、逃げたりなんかしないよ」
「ほんとに?」
「もちろん」
「てつだいは、にげるのに?」
「うぐっ……それはそれ、これはこれなの!」
へへっ、と勝ち誇ったような笑みを浮かべたプロパは、右腕を大きく振り上げた。「オレもにげないぞ。オレはおじさまみたいなりっぱな魔法つかいになるんだから! まけないからな! タカハ!」
「え?」
「魔法だよ! おまえにはまけない!」
思わず見つめ返した妖精種の少年の瞳は――どこまでも真っすぐだった。
だれかに勝ちたい。負けたくない。それは久しく忘れていた直球の感情だった。いいな、こういうの。相手は子どもだけどそんなのは関係ない。プロパっていう人間とタカハっていう人間の一対一の勝負なのだ。
僕は不敵な笑みを浮かべた。
「僕だって、魔法でまけるつもりはないよ」
「ふふん、言わせておいてやる」
「あとで後悔してもおそいからね」
「ひとつ言っておくが、てつだいではオレのぼろ勝ちだからな」
「て、てつだいに勝ち負けはないじゃん! そもそも僕は量が――」
「でも、やらないよりやったほうが、いいだろ?」
「……う」
言いたい放題に言って、鼻で僕を笑ったプロパが去って行った。
疲れた……。
あいつ、小さな台風みたいだ。
進路にぶつからないことを祈ることしかできない。
「覚えてろよ、プロパ……」
僕はため息をつきつつ、広場を通り抜けた。
坂道を上っていけば、家に帰り着く。
「――あ」
そこで、もそもそと村の出口の方へ歩く女の子の背中を発見した。
僕のテンションはそこで急上昇する。
「マルム!」
「…………んー?」
少女が振り返った。
その拍子にねこみみと茶色のしっぽが揺れる。
「……やー、タカハ」
眠そうな目をした少女は、にへら、という擬音が聞こえるような不思議な笑みを浮かべた。
名前は、マルム。
猫人族のマルムも僕やプロパと同い年だ。不思議なオーラがあるから友だちは少ないみたいなんだけれど、本人はどこ吹く風といった様子だ。
そんなことよりも何よりも――プロパとは明確に違う重要なポイントがある。
マルムは、かわいい。
頬の輪郭が猫のようにシャープで、眠そうな目も実は大きい。地味だと思っていた子が大人になったら大化けするパターンだ。中澤さん仕込みの鑑定眼が僕に告げていた。
そんな内心を微笑で覆い隠し、僕は爽やかに「どこへ行くの?」と訊いた。
「あー、ほら、……徴税があるってきいたからー」
「ちょ、徴税……っ?」
6歳のねこみみ少女の口から飛び出した物騒な言葉に驚く。
「徴税ってあの徴税? 騎士様が来て食べ物を持ってく、あの?」
「その徴税だよー」
「見に行くの?」
「うんー。いこうかなーって……」
「ついていってもいい?」
「もちろんー」
眠そうな目のマルムはもそもそと歩きはじめる。僕はその横に並んだ。
奴隷である僕たちに権利はない。
でも、義務はある。
その義務は2つだ。
1つは『徴税』。季節の変わり目あたりに騎士がやってきて、僕たちの食糧の何割かを持っていく。
もう1つは『招集』というのだけれど、こっちは今の僕には詳細不明だった。
「マルムはどうして徴税を見ようと思ったの?」
マルムは急に足を止めて、僕を眠そうな目でじぃっと見つめた。眠そうなまぶたの下に隠れた茶色の瞳は一点の曇りもなく澄んでいる。
「だってー。……おとなになったら、やらないといけなくてー」
「うん」
「……」
「………………ええと?」
マルムは眠そうな目をぱちぱちと瞬かせた。
「……だからー、見にいこうと思ったのー」
「その真ん中の部分がいちばん聞きたかった!」
マルムはにへら、と笑う。
「……じゃあ村の門のところ、行こー」
僕はゆらゆらと揺れる茶色のしっぽに誘われ、森の中の村を歩く。
――
「いいか。1度しか読み上げないぞ。騎士は忙しいのだからな。猛烈に、忙しいのだからな」
緑のコートをまとった若い騎士が羊皮紙を広げた。その周囲で村の大人数人がどこか緊張した面持ちで騎士の言葉を待っている。
僕とマルムはその輪の中に潜り込んだ。6歳の視点で見上げる大人たちはまるで森の木立のように大きく、別の生き物のようにも見える。
「今回はビム、イエナ、クロッカ、シーハの4種の木の実について徴税する。読み上げるからよく聞いておけよ」
そこから、騎士はびっくりするほどの早口で言った。
「ビムとイエナは14倍の17袋だった前回の徴税から17分の1の増税とする。イエナはそこから6袋を免除する。続けて――」
「き、騎士さま……!?」
「書面をくださるんじゃ……?」
対するピータ村の代表者たちはオロオロとするばかりでメモをとる気配すらなかった。大丈夫なのかな? すごく大事な数字の話をしてると思うんだけれど。
……あ、でも、もしかしたら役に立てるかもしれない。
僕は数字、そんなに嫌いじゃないから。
目を閉じる。
計算……の前に、この世界の条件を忘れちゃいけない。
17までの数字しか使えないという条件。
「しかし、ビムは先月、不良な袋が混じっていたから10袋追加徴収とする」
うん。
この程度の処理なら、手を動かさなくてもできるだろう。
「クロッカは10倍の17袋だったが、徴税の先が変わった。王都と領都に納めてもらうことになる。その17分の10の量を王都へ、17分の6の量を領都へ」
……ふむふむ。
「シーハは変わらず、5倍の17袋の徴税とする。……以上だ」
終了。
まあ、軽い頭の体操にはなったかな。
僕は顔を上げる。
凛々しい顔立ちの若い人間の騎士は高圧的な口調で言った。
「いいな? これが今回の徴税量だ。……では、ビムは16倍の17袋、イエナは15倍の17袋、クロッカは10倍の7袋、シーハは5倍の17袋を持っていくぞ」
「――――ちょっと待ってください」と、思わず僕は言っていた。
騎士の眉がぴくりと揺れ、小袋を数えようとしていた村人の手が止まる。
「ん? なんだ? 小僧」
高圧的な口調だけれど――僕は騎士の瞳に動揺のかげが走ったのを見逃さなかった。
「増えています、騎士様」
「だから、何がだ?」
「騎士様が読み上げられた文章と、騎士様が最後にお命じになった量が、食い違っております」
「…………ほう?」
「た、タカハー」とマルムが僕の服の裾を掴んだ。
騎士に口ごたえしてもろくなことにはならない。それは奴隷である僕たち全員の感覚で、ましてや僕は6歳だ。マルムの怯えたような反応が正しい。
でも、これは算数の問題だ。
騎士がやっても、奴隷がやっても、答えは変わらないはず。
僕はじっと騎士の目を見つめ続ける。
村人たちの沈黙が背中を押してくれているかのようだった。
「なにを言い出すかと思えば……」
皮肉っぽい笑みを若い騎士は向けてきた。
イケメンだと思ったけれど、前歯が欠けていた。
「説明してみせろ。出来るはずがないがな」
あ? なめんなよ。四則演算なんて20年前に卒業してんだよ。
「では、失礼ながら。まずビムの実ですが、『14倍の17袋だった前回の徴税から17分の1の増税とする』、加えて『10袋の追加徴収』。よって、15倍の17袋と7袋であるはずです」
騎士の目が見開かれた。
「次に、イエナの実ですが、『14倍の17袋だった前回の徴税から17分の1の増税とする』から『6袋を免除する』のであるならば、14倍の17袋と8袋ですね」
騎士の顎が落ちた。
「クロッカは『10倍の17袋だったが』『その17分の10の量を王都へ、17分の6の量を領村へ』ということですので、徴税量は9倍の17袋と7袋」
「な、な……」
騎士の顔に血が上っていく。
「つまり、騎士様は、ビムを10袋、イエナを9袋、クロッカを10袋多くお持ちになろうとしていた」
「ぶ、無礼だろう!?」
…………ええと。無礼?
語彙が足りない感じの人かな。
「俺が徴収すると言ったら徴収するんだ!」
「いえ、騎士様はさきほど書面を指さし、『これが今回の徴税量だ』と仰いました。その直後、間違いの徴税量を宣言された」
「俺が計算を間違えていると!? そう言いたいのか!?」
そうだ。
算数に答えは一つしか存在してはいけない。
「間違いではないということなら……そうですね。勘違い、ですよね?」
「ぐっ……この」
騎士の額に青い筋が走ったように見えた。
「貴様、たしか『暁』の拾い子だったな」
「……ッ」
瞬間、僕は身動きを止めた。
止めざるを得なかった。
――――騎士が腰の柄に手を置いている。
「別の村人の隠し子なんだろう? え? あの老人が子を成せなかったのは有名な話だからなあ!」
そこには、人を斬り殺すための剣がある。
「騎士様ッ!」「従騎士アーボイル様っ」「どうか!」と村人たちが声を上げる。
「ええい! 許さん許さん! 俺は騎士だ! 貴様らは奴隷だ!」
奴隷……? 僕が? 僕たちが? 奴隷?
――――なんでだよ?
すぅっと僕は目を細めた。こめかみのあたりに拍動する熱が生まれる。
僕は一歩、前に出る。
「おい、ガキ。……冗談じゃねえぞ?」
僕はじっと騎士アーボイルの目を見つめ続ける。僕は精一杯の侮蔑をこめて低い角度から人間の騎士を見上げた。この手合いが嫌うのはこういう侮辱だ。
「わかってんのか? 斬るぞ?」
僕は答えない。
「……お前は騎士に反抗した。その報いを受けてもらう」
騎士アーボイルの右腕にぐっ、と力がこもる。
僕の方へ、騎士が1歩を踏み出した。
ぎらり、と白銀の刃が見える。
それでも、僕はこめかみの熱に突き動かされるように騎士を見つめ続けて――
「――――なにをしているッ!!」
僕を救ったのは鋭い一喝だった。
声が聞こえたのと同時に騎士アーボイルは直立の姿勢をとって、別の手がその肩を強く掴んだ。
「従騎士アーボイル! 貴様! ミスリル剣を抜こうとしていたな!?」
詰め寄って叫ぶ男も騎士だった。緑コートが揺れる。その耳は三角形で頭頂部にある。犬人族だ。
「い、いえ、ジーク卿! 誤解です!」
「もう黙認はできぬ! それは貴様には早すぎる」
素早く、だが、有無を言わさない手つきで、騎士ジークが騎士アーボイルの腰からミスリル剣を奪った。
「え、あ……」
「なにがあったのだ?」
「ジーク卿、なにごともありませんでした。ええ。なにごとも――」
「少年」と、騎士ジークが近くに立つ僕を見る。犬人族の騎士の声と視線には、僕を警戒させまいとする穏やかさがあった。
「話せるか?」
「……はい、騎士様。実は――――」
僕の話を聞き終えた騎士ジークは素早く振り返り、部下を睨みつけた。
「貴様に問い詰めねばならぬことがもう1つ増えたようだ」
「じ、ジーク卿」
「いつからだ?」
騎士アーボイルは下唇を噛む。
「いつからこのようなことを続けていた!?」
「そっ、その――今回と、前回の徴税で……」
2回分。
さっきの量から考えれば5人家族が1月を暮らせる量になるだろう。
ほんと腐りすぎ。
その後、騎士アーボイルはみんなの見ている前でこってりと搾り上げられた。
「監督者である私の責任だ。確約しよう。不当な分を調査し、次回の徴税で免除する。……少年、名は?」
「タカハです」
「では、タカハ。以後、徴税の際は顔を出すように。徴税のすべてに私は立ち会えない。次の徴税は従騎士アーボイルとは別の従騎士を派遣することになる。その算術があれば間違いは起きないだろう」
「はい、騎士様」
村人たちと少し言葉を交わした騎士ジークは、従騎士を引きずるようにして村を出て行った。
嵐のような展開だった。
見送った僕は胸の中にたまっていた空気を吐き出した。
「はぁぁぁぁっ……、死ぬかと思ったぁぁぁぁ……」
剣って怖いんだな、と率直に思う。
ミスリル剣――あのぎらぎらした銀色が良くない。見ているだけで針の先端を見ているような気分になる。胸に手を当てると、どくっどくっ、と思い出したかのように動き続ける心臓の拍動を肋骨の向こうに感じる。首の汗を冷やしていく風の感触が、生きている実感だった。
それにしても無茶が過ぎた。
騎士ジークがいなければ――僕は殺されていてもおかしくなかった。
街の中で悪いお兄さんに反論するのとはわけが違うのだ。
よく、覚えておこう。
「すごいじゃないか! タカハ!」
「え?」
振り返ると、村人たちが僕を取り囲んでいた。
その表情は例外なく明るい。
「もう算数が出来るのかい!?」
「いいや、あれは算術だよ! あたしは聞いたことがある。商人たちの技みたいだった」
「だれに教わったんだ?」
「いえ……だれにも……」
「生まれつきできるってのかい?」
「その……騎士様の話を聞いていたら、おかしいなって思って……」
「お手柄だよ! タカハ」「怖かったろう?」「すまなかったね」「わしらが分からなかったから……」「そうだ! エゼリの卵があるよ。持って行っとくれ!」「俺もファムの実があるぞ」「これは、クレモンデの葉さ。煮込み料理に使うといい」
「あ、え、えっと……」
気付くと、僕は両手で持ちきれないほど珍しい食材を手渡されていた。
どうやら役に立ったらしい。
頭の体操だと思って勝手にやっただけなんだけれど。
まあ、結果オーライかな……?
「…………すごい」
女の子の声が聞こえたのはそのときだった。
僕と同い年の猫人族の少女は、眠そうな目を大きく見開いていた。
「どきどきした、かっこよかった、すごい、すごいよ、タカハ」
つっかえつっかえの言葉がかえってマルムの心の動きを伝えていた。
「騎士さまに、かったんだよ……? 魔法も、剣も、つかってないのに」
マルムの真剣な表情に、僕は思わず6歳児らしからぬことを口走っていた。
「マルム、いい? 数字だけは自由なんだよ。妥協はないし、裏切ることもない」
「…………タカハ」
「ん?」
猫人族の少女の瞳は宝石のように輝いていた。
「わたしにもー、算数を、教えて……?」
「ふっ」
僕は――完ぺきなキメ顔をした。
「もちろん教えてあげるよ。手取り足取りね」
「やった……!」
そこで、はたと気付いた。
待て。
落ち着けタカハ。
この世界には1から17までの数字しかないじゃないか。
…………算数とか、ムリじゃない?
「じゃあー……さっそくー」とマルムは羊皮紙の切れ端を取り出した。「よろしくお願いします、先生」
――――数十分後、僕はピータ村の広場で絶叫していた。
「え? あ! そこで繰り上がる!? くっそおおおッ! 17ッ! 17ああああッ!!」
「……タカハ?」
その日、僕はこの世界の算数のめんどくささを嫌というほどに思い知らされたのだった。