第50話:「……そっちへ行ってもいい?」と姉さんは僕に囁いた。
「はっ!?」
思わず、僕は奇声を発していた。
隊舎のほうに掲示されている休み明けの実習の予定を確認して、トイレに寄って、僕はマスタードの臭いが染みついた自室に戻ってきた。ドアに手をかけ、それを手前に引き、そして――――今、硬直している。
部屋の中のラフィアも、それは同じだった。
燭台の明かりに照らされたラフィアの白い背中がこちらに向いていた。
その手には脱いだばかりと思われるティーガ。
「あ、タカハ。おかえりー」
「わああああ! 振り返っちゃダメだ!」
僕は慌てて扉を閉めた。
長い溜息を吐きだす。
個人部屋を貸してもらえているとは言え、決して広くはない。もちろん一部屋だけの空間だ。この世界には風呂なんてものはないから、濡れた布で身体を清める。着替えの時間を決めておかないとこういう事件は頻発するだろう。
……なんて冷静に考えているけれど、僕の心臓はテンポよく暴れていた。
まるで今も見ているかのように、ラフィアの背中を思い出せる。騎士団にいる同僚の少年たちとは違う、小さくて、柔らかそうな背中。けれど、その下にはしなやかな筋肉が隠されていた。
うわあああああッ。
僕は従騎士宿舎の廊下で1人、頭を抱えて悶絶する。
いい加減に手に入れてほしい。自分が女の子だという自覚を。そして僕が男だという認識を。
……っていっても、ラフィアは悪くないか、と思いなおす。
14年間も一緒に過ごしてきた家族なのだ。裸を見られて恥ずかしいと思わなかったとしても、そんなに不自然なことじゃない。
結局、そう、僕の個人的な問題なのだけれど。
「…………タカハ?」
気付くと。
扉の隙間からラフィアが挙動不審者を見るような目で僕を見ていた。ツラい。
「どうしたの?」
「あ。え、えーと……お腹が痛くなったんだ。もう治ったけど」
「だ、大丈夫? 悪い木の実が入ってたのかな? どこが痛いの?」
ぽんぽんっと強すぎない手つきで僕の腹に触れるラフィア。少し前かがみになったその瞬間に――
「うわああっ!」
僕は腹痛のあまりに崩れ落ちるふりをした。
見えそうだったのだ。
いや、ほとんど見えていた。男子が常に虎視眈々と狙っている楽園。女の子の襟元に存在するという桃源郷。それは現実にある――どころか、僕は完ぺきなタイミングでうっかり覗きこんでしまった。
服の上からでも成長はなんとなく想像していたけど、実際の曲線を目の当たりにするのはわけが違った。
「だ、だれか呼んでくるね! 待ってて!」
「大丈夫だから! す、すぐによくなる! 僕にはその確信があるっ!」
「手を離して! もしものことがあったらどうするの!?」
回復魔法を使える正騎士に診てもらうことになるだろう。別に嘘をつきとおせばいいだけなのだけれど、僕は自分でも想像できないほどに抵抗してしまった。
「――――あ」
その一環で、僕はラフィアのティーガのベルトを掴んでしまう。
結果、バランスを崩したラフィアは、だが、持ち前の運動神経をいかんなく発揮し、機敏な動きで受け身をとった。すごい、と声が出そうなほどの完ぺきな受け身で、音もなく着地に成功する。
その曲芸飛行のような動きに――ティーガのベルトだけがついてこられなかった。
1枚の大きな布を縫い合わせたり折り重ねたりで服の形にしているティーガにとって、ベルトは言うならば要石だ。
結果。
はらり、とラフィアの服がずれた。
吸い込まれそうな白い肌と、成長途中の女の子らしい曲線と、この世界のざっくりした形をした下着が、ある種の芸術品のような統一感をもって網膜に焼き付く。
「お腹があああ――っ!」
僕は腹を抱えるふりをして、ラフィアから慌てて顔を背けた。
そのときだった。
がちゃり、と僕と向かいの部屋の扉が開く。
「あのさ」
顔を出したのは、普段は温厚すぎるほどに温厚な、犬人族の従騎士くんだった。
ぺにゃっとした愛らしい鼻の上から、じっとりした視線を容赦なく放ちながら、一言。
「――――2人とも、いい加減、うるさい」
「「ごめんなさい……!」」
――
僕たちは部屋に入った。
ベッドとは別にラフィアが用意しておいてくれた布団が敷かれている。寒冷なムーンホーク領では毛布もそこそこの貴重品で、前世のふかふかベッドというわけにはいかない。
数日前の口論の末、僕が床の布団で眠ることになっている。
「ほんとうに私、床でもいいよ?」
「気分の問題だから。……おやすみ、ラフィア」
「……おやすみなさい」
燭台の明かりを消して、僕は布団に潜り込む。
……。
…………。
寝返りをうってみる。
「うん」
眠れなくても当然だった。
ラフィアがもぞりとベッドの中で動く音が聞こえる。少しでも集中すれば、僕が1人で居たころとは違う匂いが、空気に交じっていることがわかる。
これは早急に対策を講じる必要がある。睡眠不足で従騎士の仕事に集中できないなんて、目も当てられない状況だ。
不意に。
「タカハ……?」と。
囁きよりも、もっと小さな声が聞こえた。
「なに?」
「……眠れないの?」
身じろぎに気付かれていたようだ。
ラフィアは耳がいい。
「さっき、お腹が痛かったせいかな。気がたかぶってて」
「……そっちへ行ってもいい?」
…………はい?
「え、と」
「ちょっと、聞いてほしいことがあって……ダメ?」
これを断れる人がいたら、セミナーを開いてほしい。『社会を生き抜くための断る力』とかいうタイトルで。
僕は少なくとも無理だった。
「……いいよ」
暗闇の中、もぞもぞと動く音がする。
僕の背中側の毛布が持ち上げられて、やっぱりいい匂いがした。温かい感触が僕の背中に触れる。すべての感覚を動員して、それがラフィアの背中だと分かった。……残念だなんて思っていないですよ?
「最近、すごく気になることがあるの」
「……」
「私の、ほんとうのお父さんとお母さんのこと」
僕の頭の後ろのあたりに、別の電流が流れたみたいだった。
「ゲルフは私の大切な家族の1人。ほんとうに大好きで、おとーさんはおとーさんしかいないって思ってる。今でもそう。だけどね……考えれば考えるほど、私は、私の前からいなくなった2人のことが気になるの」
僕は。
当然。
そんなことを気にしてこなかった。
僕の記憶は、前世の22年間と、カミサマと会話した転生空間での数分間と、こっちの世界の0歳のタイミングとが、途切れることなく続いている。だから疑問に感じることすらなかった。
「他の村の子どもなのかな?」
「……」
僕は冷静に言葉を組み立てる。
「同じことをゲルフに聞いたことがあったんだ。そのときは『森の中で見つけた』って言ってたよ。近くの村の生まれではなさそうだ、って思ったらしい」
「じゃあ……貴族様の捨て子とか?」
「……って、ことになるんだろうね」
「そもそも、私とタカハは血がつながってるのかな?」
「近くだけど、別の場所で見つけたらしいよ」
「血がつながった姉弟なら一緒にしておくか、すぐにはたどり着けないように離れさせるよね」
的を得ている。
真実は、どうなのだろう。
僕は転生人で、神ポエマーが用意したこの体に転生した。抜け目のないカミサマのことだ。僕をゲルフが通る道の近くに置いておく、くらいのことはするだろう。
じゃあ……ラフィアは?
どくり、と心臓が跳ねる。
まさかラフィアも転生人なのか……?
いや、それはあり得ないと断言してもいいだろう。13年間一緒に暮らしてきて、それを隠し通せるとは思えない。1度でもある程度の精神年齢に達しているのなら、僕はそれを判断できる自信がある。僕はたぶん不気味なこどもだった。でも、ラフィアは違う。
そもそも、ゲームマスターであるカミサマがそんな愚を犯すはずはない。
カミサマの目的は『この世界を引っかきまわすこと』。
なら、将来敵となる転生人同士を、こんなに近くに転生させるはずがないじゃないか。
……そこまで考えて。
僕は自分が少し嫌いになる。
僕は、今、なんのためらいもなく、ラフィアを疑ってしまった。
「もしかして……私たち、『眠りの国』の出身なのかな?」
ラフィアは無邪気な想像を膨らませていた。
――――この世界には6つの国がある。
僕たちのいる『魔法の国』。
海の上にある、商人たちの『蒼海の国』。
砂漠の中に築かれた大陸最古の帝国『火炎の国』。
ミシア教を国教にして『相互の完全同盟』を宣言する『鉄器の国』と『山脈の国』。
そして、最後が『眠りの国』。
6つの中で1番変わっている国といえば、間違いなく『眠りの国』になるだろう。
ムーンホーク領のさらに北方、眠りの国との国境である『北限森林』と『北限山脈』には決して晴れない霧のようなものがいつも存在する。
大障壁。
マナをわずかに消費し続けていること以外、すべてが未知のその魔法を、僕たちはそう呼んでいる。
ベールの中には透明な物理障壁が隠されていて、人間がそこを通り抜けることはできない。魔法は打ち込んだものと全く同じ魔法が弾き返される。だが、動物や木の葉や空気は、ベールをふつうに通過できる。
人間には壁。
魔法には鏡。
そんな絶対不可侵の防御領域に包まれた『眠りの国』は――――外部との関わりを一切絶って、今も眠り続けている。
ベールは太古の大魔法で、もうあの中には生きている人がいない、というのが、魔法使いたちの間の一般的な印象だった。
「大障壁を人間は通れないよ」
「うーん、そうだよね……でも、ほら、作った側からなら、こう。ポンって。なんか、ポンって」
ラフィアは僕には見えないなんらかのジェスチャーを作ることに必死だ。
「飛び出す、みたいな感じで……ダメかなあ」
分からない。
真実を確かめるすべはない。
でも、両親の話を聞いているうちに、同時に僕は、あることに気付いた。
「そうか。……僕は」
温かい暗闇に向かって言う。
「ラフィアに感謝してるんだ」
「……え?」
紛れもない本心は、昼間に面と向かって言うことはできないだろう。
前世があっけなく終わって。異世界に送られて。「だれかに捨てられて。奴隷っていう立場で。ゲルフともうまくやれなくて」
「……」
「それでも、僕が前を向いて生きてきたのは、同じ境遇に、いつも一緒の人がいたからだって、今さっき思ったんだよ」
僕1人なら、投げ出していただろう。
奴隷印を刻まれた時点で。
騎士に吹っ飛ばされた時点で。
ゲルフに殴られた時点で。
でも、そのたびに、明るくて前向きなラフィアを見て、僕は前に進んできたのだ。
だから、僕はこれからも、そうやって進み続けるだろう。
「一緒にいることくらい簡単だよ、タカハ」
ラフィアは心底そう思っているというような、確信に満ちた口調で言った。
「だってわたしたち、家族でしょう?」
背中に感じるこの温もりはきっとそういう名前なのだと、僕は思った。




