第45話:「何が欲しい?」と公爵閣下が僕に問う。
「タカハ様」
朗々とした声が僕の名を呼んだ。
そのくらいのいい声ではないとこの場とは釣り合わないのかもしれない。そんなことを思いながら、椅子から立ち上がる。
磨かれた石造りの床。美しく装飾の施された燭台が整列し、壁には品の良いタペストリーがかけられている。これで廊下だ。
僕は、最大の建造物、ムーンホーク城の内部に居た。
廊下では狼人族の執事が、こちらが恐縮してしまうくらいに深々と礼をしている。植物が伸びるような滑らかすぎる仕草で体を起こした老年の執事は、人なつっこい笑みを僕に向けた。
「では、ご案内をさせていただきます」
従騎士1年生の3人組が、休暇の間に公爵の署名が使われた偽造書類を発見した。
このエピソードを閣下はいたく気に入ったらしく、僕たちから個別に話を聞きたくなったらしい。それで、呼び出された。
見た目に反して意外とフットワークが軽いんだな、と思う。リュクスやプロパは別の日にもう呼び出され、じっくりといろんなことを話したようだ。
「お招きいただきありがとうございます」
「……」
執事はしばらく僕の目を見て、そして、僕の耳元に口を寄せた。
「タカハ様、閣下の言葉はほとんどが戯言でございます」
僕は驚いた。
執事さんがそんなこと言っちゃっていいのか。
とはいえ、あの雰囲気だもんな……。公爵閣下が執事さんに迷惑をかけまくっているのが容易に想像できる。胃潰瘍とかになってそうだ。
「戯言、ですか」
「はい。もちろん、タカハ様のありのままでかまいません。……が、どうぞ、どこかに線を引いて、それ以上を踏みこまれることがありませぬよう、お気をつけください」
では、と言って執事は歩き始めた。
僕はその背中に続く。
面倒なことになった、というのが正直な感想。四大公爵閣下、ふざけていて、つかみどころのない印象だけど、ああいう人に限ってプライドが高くて、地雷を踏み抜いたら僕の首が飛んでしまうことだってあり得るだろう。
でも、冷静に考えれば、チャンスだ。
領主様と会話できる機会なんて、そうそうないのだから。
――
会食の席は廊下と比べると同程度の、そんなに飾り立てられていない一室だった。
だが、並べられた食事はさすがに貴族向け。前世でいうところのフランス料理のような見た目をしていた。食事には機能性しか求めていなかったから、美しくソースをかけられた食材たちが宝石のように見えた。
実は、食欲がない。
部屋の調度品に視線の置き場所を探す。
つまるところ。
僕は緊張していた。
「ちなみに、飲める?」
軽妙な、と表現するのがふさわしい口調は、真正面から。
ライモン=ファレン=ディード公爵。
国王陛下に続く4人である四大公爵。
その1人。
肥え太った身体をゆったりとした緑色の服に包んでいる。茶色の瞳だけが妙にきらきらと輝いて、僕に向けられていた。
飲めるわけない、けど。
「……いただきます」
腸詰め肉のような指につかまれ、ひどく小さく見える杯を慎重に受け取る。
その間も、茶色の瞳がじっと僕に注がれていた。
……これ以上ないってくらい居心地が悪い。
杯の中身はロゼを敷きつめたような色だった。ワインにかなり近い飲み物だろう。ワインと呼ぶことにする。前世の22歳の肉体でようやく慣れつつあったアルコールの匂いは――僕の体には少しキツイようだ。
「飲めるね? 飲める。飲むんだ!」
「……いただきます、閣下」
僕はその匂いに既に酔っていて、杯を掲げる。
「ん? なにしてるの?」
しまった。
乾杯の風習なんてこの国にはないのか。
……ええい。
「お酒を飲むときは『乾杯』という儀礼を行うと聞いたことがあったのです。互いに何かを言って、杯を掲げるのだ、と」
「君の出身地の儀礼? どうやるの?」
「たとえば……」
僕は杯を持ち上げて「閣下に」と言ってから口をつける。まっず。むせた。「げほっ……。こっ、このような儀礼でございます」
「いい! いいよ! 面白い!」
ライモン公爵は自分の杯も同様に掲げた。
「『魔法の国』の、魔法使いたちに!」
がぶり、とライモン公爵は杯の中身を飲み下す。
瞬間――――僕は自分の緊張を忘れた。
首筋の裏の毛穴がぶわりと開くみたいな感覚だ。
僕は……怒ってる。
魔法使いたちが汗水たらして作った酒を目の前の肥え太った領主様は飲んでいるのだ。ライモン公爵の口調には、魔法使いたちへの感謝なんてこれっぽっちもなかった。魔法使いたちは酒をこの人に届けるだけじゃなく、この人のために戦場に行かなければならないのに。
ぐるぐると無数の記憶が渦巻く。
『鉄器の国』の弓矢に殺されたリリムさん、泣き崩れるマルム、危険すぎる戦場で捨て駒にされたゲルフ、神秘の光に両断される魔法使いたち、誘拐されたラフィア、シャギーが入った髪型の下衆な貴族――――
その全部を、この人は見逃している。
見逃して、奴隷たちが届けた酒を飲んでいる。
火山の噴火のような僕の感情を、僕の魂が冷静に観察している――そんな、不思議な感覚だった。
コントロールしなければ。
僕は顔の筋肉を引き締める。
顔を上げた。
そして、僕は自らの失敗を悟った。
「――――君は、面白い表情をするなあ」
ライモン公爵が透き通った茶色の両目で僕を見ている。
見た目の印象だけなら、愛嬌のある顔だ。なのに、目が違う。そこに宿る光が。いつかゲルフが見せたような魔法使いの目によく似ている。ぎらついた光。
心臓を掴まれる感覚がした。
それをこの人に味わわされるのは2度目だ。
「北東域の村の出身なんだよね?」
「……はい」
頷く。
ライモン公爵のそれは何気ない一言のはずだ。なのに、僕は警戒している。腹の底に押し込めている貴族や騎士への反抗心をそっと撫でられているような感覚がする。
「魔法はだれに教わったのかな?」
「……父です。義理の、ですが?」
「有名人?」
「私の村では最も魔法に優れた人でした。2つ名は『暁の魔法使い』、ゲルフという人間です」
閣下はしばらくぽかんとした表情を浮かべた。
「くっ」そして、膝を打つ。「あははははっ!」
閣下の爆笑は長い。
「ええと……閣下?」
「ははっ、そうか、そうか、くくっ、『暁』の子どもなんだ……!」
「はあ……」
「どういう父親なの? 『暁』は?」
「……厳しい人でした」
「あのじいさん、子どもにもカッコつけてたんだな」
「お会いになられたことがあるのですか?」
「お会い、なんてもんじゃないよ」
ライモン公爵は顔の前で右手をひらひらと動かして、苦笑した。
「『暁』は緑色騎士団の相談役としてよく領都に来てたんだ。……んー、そうだな、おれに『痩せろ』なんて言えるのは、世界広しと言えども『暁』くらいだったんじゃないかな?」
領主様に「痩せろ」……うわぁ、ゲルフなら言いそう。
でね、と閣下は続ける。
「それはもう厳しいじいさんだった。緑色騎士団に色々な戦い方を持ち込んだのが『暁』で、鬼か悪魔みたいだって言われてたよ。……けど、10年くらい前に態度が妙に柔らかくなった」
「…………あ」
「そう。タカハともう1人いるんだよね?」
くくっ、とライモン公爵は腹を揺らす。
「おかしいなと思って、酔っ払わせたことがあるんだ。『暁』を。そしたらあのじいさん、なんて言ったと思う? ……『子どもとどう接したらいいか分からんのです』だって。『暁』は子どもがいる年齢の騎士たちに色々訊いてたんだけど、『暁』のことを鬼とか悪魔だって騎士たちは思ってるからさ、お互い緊張しまくりで会話にならない。それがおれは笑えて笑えて……くははっ。ああ、思い出しても笑える」
ライモン公爵はしばらく笑いの波に流された後、目を細めて言った。
「――――よく来たね、タカハ」
「はい」
「従騎士を目指せっていうのは『暁』の言いつけ?」
「いえ、自分で決めました」
「そうか。『暁』の子どもが騎士に、ね……。招集で活躍してさ、『大魔法使い』になって『文官』を目指しても良かったんじゃない? 騎士は恨まれるよ。わかってると思うけれど」
「僕は、外の世界を見てみたかったのです」
「なるほどね。そっちが目的か。まあ、北東域は田舎も田舎だからな」
ライモン公爵はぐびり、と杯を傾ける。
僕は用意していた話題の1つを放り投げることにした。
「閣下、質問をよろしいでしょうか?」
「固い固い。気楽にしてよー。この席でなにを言ったってなにも変わらないからさ」
「では……」
まずは、ジャブのつもりで。
「領都では貨幣が使用されていますが、領都の外には普及されないのですか」
今回、ファロ村の木の実を売りさばいてみて、僕は改めて思った。
お金という1本の軸があれば、物々交換よりもはるかにスムーズに人や物を動かせる。そうすれば、食糧の偏りなんかも改善できる可能性がある。
「お、いい質問だ」
ライモン公爵はソーセージのような人差し指からぱちりといい音を鳴らした。
「今のところ、領都の中で先に試してるだけって感じかな。うまくいかない部分を先に見つけておこうってわけ。いずれは領内全域に広めるつもりだよ。あとは、貨幣を作る人手も足りてないから、まあ、もうしばらくかかりそうだけどさ」
淡々とした物言いに、僕は少し驚いた。
部下の言いなりでそうしているだけかと思っていたけど、どうやら公爵が主導で進めているらしい。
「貨幣経済は、どう考えたって導入するべきなんだ」
「べき、ですか?」
「『蒼海の国』を見たら分かるよ。本能で分かる。……そうだよな、タカハは行ったことないもんな」
ライモン公爵は『蒼海の国』の豊かさを示す様々なエピソードを披露してくれた。
海の上に積み重ねられた豪華絢爛な建物たち、贅沢な食事、きらびやかな宝石、商人たちの会話のスケール――――
「……サンベアー領とミッドクロウ領は反対してきててね。今の物々交換のレートが変わっちゃうから嫌なんだろうな。お金っていうのは軸になるんだ。それで評価できちゃうことがいろいろあるからさ。……ま、そんなの無視してやっちゃうけどね」
閣下はふふんと笑った。
その雰囲気に呑まれたのか、酒にやられたのか、僕は口を滑らせた。
「閣下は、愚劣なフリをされているのですか?」
ライモン公爵はぽかんと僕を見た後、苦笑する。
「すごくバカにしてるよ、それ」
「ッ!? も、申し訳ありません!」
「あっはっは。愚劣か。愚劣ね」
閣下は僕の肩の辺りを殴った。指にまでついた脂肪のせいで、ほわん、としたパンチだった。
「これで許す。さあ、従騎士タカハよッ。正直に続けたまえッ」
「……ぼ、僕の目にはそう見えるのです」
うーん、と閣下は首をひねった。
「おれはいつも全力で生きてるつもり。食べることにも寝ることにも後宮で遊ぶことにも。……少し前まではね、フィオナちゃんっていうすごい可愛い子がいて、1日じゅう一緒にいたりしたんだ。けど、まあ、フィオナちゃんも可愛くなくなっちゃったし、次の可愛い子を探してるうちに……なんだろう、飽きちゃったんだよね」
怒ればいいのか。
呆れればいいのか。
それとも笑い飛ばせばいいのか。
全部の感情の中間のようなそれが僕に押し寄せてきた。
「飽きたのですか……?」と僕は言葉を繰り返す。
「おれもよく分かんないんだけどね、ほら、大事なものが変わることってあるでしょ?」
閣下は淡々と言う。
「子どものころ集めてた虫の死骸なんて、大人になったら捨てちゃうじゃない。昨日まで燃えるような恋をしていたって、その感情がいつ燃えかすになるか分からない。それと同じかなっておれは思ってるんだ」
「つまりそれは新しいなにかを見つけた、ということですか?」
「そう。もっと、ゾクゾクできるものがあるんだよ」
ライモン公爵の目が――――魔法使いの目に変わった。
「……それは何ですか、とあえてお訊きします」
「あえておれも言うけどさ、君と一緒だよ。タカハ君」とライモン公爵が囁く。「ふんぞり返ってるやつらを踏みつぶして、自分がそのさらに上にのし上がる――歴史のメインテーマ、下克上ってやつ」
僕の手のひらに、冷や汗がぶわりと湧いた。
公爵は僕に、反逆の意志がある、と言ったのだ。
でも……ライモン公爵の話に乗っかってしまえばうまくいくんじゃないか。だってこの人はムーンホーク領の支配者だぞ……?
僕は。
……うん。様子を見るべきだ。
まだこの人のことをよく分かっていない。
「ご冗談を」僕は首を横に振った。「閣下のさらに上……ということは、王都と国王陛下ですか?」
「騎士王なんて言われてるけど、あいつはおれの数倍間抜けだよ。あの血が半分もおれに流れてると思うとぞっとする」
「……本気ですか?」
「んん~? 冗談に決まってるでしょ?」
「…………」
ライモン公爵はにやりと笑った。
「君のことも冗談。おれのことも冗談」
2度とこの人に『愚劣』という単語は使わない。
「では――なぜ僕にその冗談を?」
にたり、と。
ライモン公爵は悪魔めいた笑みを浮かべた。
「四大公爵なんて、なに1つ価値はないんだ。力もない、動員できる人間もほとんどない。実質は緑色騎士団がすべてを支配してるんだよ。唯一おれが持っているのはこの血だけ。この血を持っている人間しか出られない集まりに参加してるだけ。だから――――おれはいつも力を探してる。使える力をね」
「……」
「タカハ、お前は精一杯おれを利用するんだ。おれもお前を利用するつもりだから。……手始めに、緑色騎士団長におれから口添えをしておいてあげる」
「ありがとうございます」と答えるのが精一杯だった。
「もちろん、これはおれの誠意だ。借りたなんて思わなくていいよ?」
つまり僕はなにを借りたのだろう。
僕は深みに嵌りこんでしまったのかもしれない。
「あ。そうそう」
閣下はぽん、と手を打った。
「忘れるところだった。今回の1件、お手柄だったね」
「騎士アーボイルは……どうなったのですか?」
「気になる?」
「気になります」
「処刑はしてないよ。けど、身分は肉体奴隷にした。実際、ウェルムのバカが全部主導してたんだろ? あいつに丸め込まれる騎士も騎士だけどさ……」
「では……ウェルム様は」
「まあ、半殺し?」
「……」
その軽妙すぎる口調と、あの男を襲ったであろう現実の落差に、少し背筋が冷たくなる。
ライモン公爵はため息を混ぜながら言った。
「最初はあいつの『奴隷を蒐集』するっていう趣味も面白かったけど、バカさ加減にも飽きちゃったし、おしまいだな。真剣に跡取りを探さないと。……っておれは思ってるんだけど、タカハはどう思う?」
「……と、いいますと?」
「このムーンホーク領の公爵家に、跡取りは必要かな?」
顔は笑っているけれど、目の方がもっと笑っていた。
「もちろん必要かと思いますが」
ライモン公爵は満足げにソファに体を沈めた。
「うん。おれたち公爵家が奴隷たちをまとめ、『魔法の国』を支える。この体制は完ぺきなものだからね」
「……」
「それを守護するという道を選んでくれた優秀な従騎士タカハに、ささやかながらご褒美をあげよう。――――タカハは何が欲しい?」
僕は目を閉じて、一度、呼吸を整えた。
僕が欲しいもの。
「おれがあげられるものならなんでもいいよ? ……選択肢としては、まずは奴隷かな? 家事や手伝い、その他、なんでもさせていい奴隷だ。お前の持ち物なんだからね。城の中を歩いて気に入ったのがいれば適当に連れて行けばいい。たいていのやつはそれを選ぶ。……あとは領地か。村の1つ分くらいなら場所によるけど考えなくもない」
試すような色がライモン公爵の目元に宿っていた。
僕が欲しいもの。
それは、決まっている。
「僕には姉と妹がいます」
「…………え?」
「僕の姉は『9歳の儀式』で魔法を失いましたが、『狩猟術を広めることで飢える奴隷を救いたい』という夢があり、それに向けて努力を続けた結果、狩猟術や武術の優れた使い手となりました。
また、妹は算術に優れ、優秀な商人となる素養を備えています。彼女の夢は『蒼海の国』に旅立ち、商人としての腕を磨くことです。
この2人に、出来る限りの機会をいただきたいのです」
「……機会?」
「言い換えるなら、挑戦の場、あるいは、可能性、でしょうか。それは閣下から頂戴するしかないものです」
ぽかん、とライモン公爵の顔から表情が落ちた。
なるほど、これが素の顔なのか。
「彼女たちは奴隷であり、ピータ村を離れるためには多くの制約があります。つまり――いただきたいのは、2人が村の外を自由に行動できる権利です」
あの2人ならば――その機会さえあれば、自分だけの未来を選べるはずだ。
ライモン公爵はゆっくりとグラスをテーブルに置いた。
顔を上げて、僕の目をのぞき込むようにして見た。
僕もまた、ライモン公爵を見つめ続けた。
「……………………面白い」
ライモン公爵は自分の膝を右手で打った。
「いいね。いいよ! こんなやつにおれは会ったことがないぞ! なんでそう考えた? お前は何だ? 14歳の従騎士1年生? 冗談はよせよ!」
「いえ、これは……冗談ではありません」
公爵のテンションが高すぎて、僕は少し身構える。
「それは『暁』が吹き込んだのか?」
「いいえ。自分で決めました」
「なんでだ? なんで自分の望みを言わない?」
「……率直に申し上げて」
「うんうん」
言ってもいいのだろうか。
ま、いっか。
「僕が欲しいもので、閣下から頂けるものは、このムーンホーク領には1つとしてありません」
「…………へえ」
ライモン公爵の笑みがぐにゃりと溶けて別の種類のものに変わった。
殴られた少年が相手を殴り返す寸前の、あの笑みだった。
「今のも、結構いい冗談だったな」
「……お褒めにあずかり光栄です」
「そうだ! いいこと思いついた。2人とも、ゲルフの子どもたちってことなんだろ?」
「全員『義理の』ですが」
「とりあえず――その子たち、呼んで」
「……はい?」
「特別許可証を出そうか決めるんだ。おれが自筆で署名した書状を奴隷にあげるかどうかって話なんだよ?」
ライモン公爵はまるまるした首を少しだけかしげた。
「もちろん、その子たち、面接するから」




