第42話:「助けて! タカハ……!」と少女が僕のコートを掴んだ。
騎士団長とともに本部に戻り、報告書などの作成に立ち会った後、宿舎へ足を向けたときには、すでに夕暮れどきだった。
ぼんやりと疲労した全身を引きずるようにして、宿舎へ戻る。
考えがまとまらなかった。魔法奴隷をためらいなく殺した騎士団長の背中が、網膜に焼きついて離れない。
9歳ではじめて戦場に立ってから、たくさんの人を死を僕はこの目で見てきた。戦場での人の死には慣れているつもりだった。
でも、騎士団のあのやり方は、そういうのとは違うような気がする。
「…………ん?」
そのとき、僕は正門の方に意識を奪われた。
騎士団の本部は、意外にも一般的な学校の配置に似ている。正門があって、そのすぐのところに練武場――要するにグラウンドが広がっていて、奥に隊舎、宿舎、厩舎、武器庫といった建物が並んでいる。
だから、正門までの距離は50メートルほど離れている。
それでもなお、声はよく届いた。
「……お願いします……! どうか……!」
「聞き分けろ……! ……立ち入りは許可されない……!」
なにやらもみ合いのようになっている。正門の警備にあたっていた衛兵が、2人がかりでだれかを押さえこんでいるようだ。てことは、押さえこまれているのは騎士ではない。おそらく市民でもない。となれば、奴隷だろう。
しかも、押さえこまれているのは女の子のようだった。手を振り乱し、暴れ回っているように見える。突破できる気配はないけれど、衛兵2人も困っている様子だ。
「従騎士さまに……! お話が……!」
「無理だと言っている……!」
僕は隊舎を振り返った。正騎士に報告するべきだろうか。
「従騎士……! 従騎士の……タカハさまです……!」
…………ちょっと待て。
瞬間、僕ははじかれたように走り出した。
「娘! 次は本当に殴るぞ!」
「お願いします! どうかお願いだから!」
ああ。
僕のバカ。
どうして気付かなかったんだ。
ずっと聞いてきた声じゃないか。
「待ってください!」と叫ぶ。
焼けるような夕日の中、振り上げられた衛兵の拳が止まる。その下で、茶色のねこみみをたたんで、ぎゅっと目をつむっていたのは――マルムだった。
「…………ぁ」
マルムが顔を上げる。その眠そうな目が驚きに見開かれる。
「た、タカハ……、タカハ……っ!」
「うおっ!」「従騎士殿! 不審者です!」
衛兵2人を突き飛ばしながら、マルムは一直線に僕のところへ駆け寄ってきた。運動神経がいいはずの猫人族らしからぬ勢いで、マルムは僕にぶつかってくる。
「マルム、どうしてここに……!?」
「助けて……! タカハ……!」
僕のコートの裾を掴んでマルムは叫んだ。
1年ぶりに見るマルムは、記憶の中の眠そうな雰囲気が嘘のように、動揺し、狼狽し、憔悴しきっていた。
「とにかく落ち着いて。なにがあったの?」
両手で掴んだ少女の肩が小刻みに震えている。
「ラフィアが……!」
「…………え?」
「ラフィアが、誘拐されちゃったの!!」
――
話をまとめると、こういうことだった。
数日前、ピータ村に貴族を名乗る男がやってきて、ラフィアを呼び出した。
貴族は『この書面のとおりだ』と言って、公爵閣下の署名がされた書状を差し出した。
そこには『肉体奴隷を招集する許可』が書かれていたのだという。
「招集……?」
とりあえず、マルムを部屋に。
月明かりと燭台の光が部屋の中を照らしている。テーブルの向こうにぺたりと座ったマルムは、疲れ切っているように見えた。
「……ラフィアを、ブリズ村に……呼び出すっていう内容でー……」
「でも、待って。ラフィアはまだそもそも肉体奴隷じゃない」
僕たちは例外なく奴隷だけれど、このムーンホーク領では成人するまで労働の義務はない。雀の涙ほどの良心だ。今回の状況ではその良心すら踏みにじられている。
「うん……。みんな、おかしいって言ってたんだけど……」
「ゲルフは? ソフィばあちゃんやガーツさんは?」
「それが……ソフィばあさまは招集に行ってて、ゲルフさまもガーツさんも村に居なくて……。それで……タカハに会いに行くしかないと思って……」
「マルムはどうやってここまで?」
「途中までは馬に乗って来て……最後、城門のところは、荷馬車に潜りこんだんだー」
こ、行動力あるな。
――――いや、それどころじゃない。
「もしかして、マルム――今は脱走奴隷ってこと?」
「……うん……」マルムはねこみみを小さくした。
まずいな、と内心で呟く。身分を確かめられてしまえば、マルムが許可状を持っていないのに出身地を離れた奴隷だということは一発でバレてしまう。これは極刑もありうる重罪だ。
「とりあえずマルムは誰にも見つかっちゃいけない。僕にはこれがあるから――」
従騎士の身分であることを示す緑色のコートを指さす。
「――大抵の追求は逃れられると思う。ちょうど夏休みが始まったところだったんだ。明日、日が昇ったらすぐに帰ろう。それまではこの部屋から絶対に出ちゃダメだよ。いいね?」
「……う、ん……」
マルムは大きく頷いた。
そう見えた。
でも――それは頷きではなかった。
「分かっ、たー……」
「マルムッ!」
ぐらりと猫人族の少女の体が揺れ、床に倒れ込む。
寸前、僕はなんとか受け止めた。
熱を出しているみたいに体温が高い。太陽に負けた植物のようにくたりとしている。額には汗。呼吸は浅く、早い。今日の旅はマルムにとって大がつく冒険だったはずだ。自分の命をかけた旅。どれほど神経をすり減らす道のりだったのだろう。
マルムのこの覚悟を無駄にするわけにはいかない。
「くそっ……どういうことだ」
どうして。
どうしてラフィアが誘拐されなくちゃいけない――?
「とにかく明日――――」
呟いた、その瞬間だった。
コンコン、と部屋の扉がノックされた。
「――ッ!」
僕の首筋が一瞬で熱を帯びる。
今、僕の腕の中には疲れ果てて眠ってしまったマルムが居る。
彼女の姿を――脱走奴隷の姿を他の誰かに見られてしまえば、僕もマルムも破滅だ。
僕が先に部屋に入った。
頼む。マルム、カギをかけててくれ――――
僕の祈りは届かず。
なんの抵抗もなく、扉は開いた。
「やっほータカハ~! 夜分にごめん、ね~…………て」
「……む?」
扉の隙間から顔を出していたのは、緑色のコートをまとった犬人族の少年だった。きっちりセットされた黒髪の中で、同じ色の犬耳がぴきーんと硬直している。その向こうに、額に縦しわを刻んだ妖精種の少年。
リュクスとプロパだった。
プロパが足を止めたリュクスをせっつくように言った。「なんだ? どうした? タカハに用があると言ったのはリュク……――」
リュクスはばつが悪そうに顔を背ける。
「……ほんと夜分にごめん」
「た、タカハっ! お前、そ、それは――!?」
声をうわずらせたプロパの顔が一瞬で真っ赤に燃え上がる。振り返ったリュクスがプロパの目元を片手で覆った。「プロパにはまだ早い」
「ばかっ、リュクス、離せっ!」
そこでようやく――僕は状況認識に至った。
倒れ込みそうになったマルムを支えた。
裏を返せば、マルムは僕に抱きついているような格好になる。
窓の外には2つの月。
子どもはばっちり眠っている、夜の時間。
そしてここは宿舎の僕の部屋。
「ご、誤解だよ! プロパなら分かる!」
僕はそくさくと退出しようとする2人を思わず呼び止めていた。
「ピータ村のマルムだ。覚えてるよね?」
「「――――え?」」
2人の疑問符の理由は違うはずだ。
「マルムだと……?」
プロパの白い頬から上気していた熱が引いていくのがはっきりと分かる。
「どういうことだ? なぜ、マルムがここにいる?」
「……お? なになに? もしかして修羅場? 修羅場か?」
リュクスの暢気な声ですらも、僕とプロパの間に走った緊張感を砕くことはできなかった。
――
「――――あり得ない」とプロパは言った。
マルムをとりあえずベッドに横たえた後、僕は2人に事情を相談した。
その説明が終わるなり、プロパがそう断じたのだった。
「奴隷の招集はすべて騎士の仕事だ。それは肉体奴隷に関しても例外ではない。そもそも、奴隷を招集する書状にいちいち公爵閣下の署名をいただいていたら、それだけで閣下の仕事は埋まってしまうだろう? 少なくとも、正規の手続きを踏んだ招集でないことは間違いない。いや……もっとはっきり言えば、ラフィアを呼び出したその書状は間違いなく偽物だ」
そうか。戦争に連れて行かれるのが魔法奴隷にとっての招集なら、仕事の多い都に連れて行かれるのが肉体奴隷の招集。その管理は騎士団が一手に担っている。決して、貴族の領分じゃない。
「それに……」リュクスもいつになく真剣な口調で言った。「ライモンのおっさんはめったなことでは書状にサインをしないよ」
「……でも、僕たちはライモン公爵の持ち物だよね? なにか理由があって、ラフィアを移動させるなら――」
「あまりこんなことを言いたくないけど。でも、言うね」
リュクスは一瞬だけうつむいたあと、続けた。
「貴族にとって奴隷は物だ。そこに置いてある羽ペンとか本と一緒。その場所を変えるためにわざわざ書類にサインをすると思う?」
「――――」
しない、だろう。
「だから、ラフィアちゃんが見せられたっていう書類は偽物だ」
「じゃあ、それを証明すれば――――!」
心が軽くなる音が聞こえたような気がした。
僕は従騎士だ。まだ正騎士ではないけれど、この国の役所と警察と軍隊を兼ね備えた組織に所属している。さまざまな権能が与えられているのだ。そういう不正を暴くことは簡単なはず。
「タカハ、とにかく落ち着け。いいか。まず前提として、押さえておかなくちゃいけないことがある。――相手はかなり周到だ」
「そうだね。うん、俺も同意見」
「え……?」
2人の主張に呆然とする。
どういうことだ……?
「では問うが。相手が貴族なら、なぜ『ピータ村に住む』『将来肉体奴隷となる少女』『ラフィア』という情報を知っていた?」
「――――!」
「ラフィアが回路を失ったのは4年前だが、その事実はそう簡単に広まらない。ラフィアの行動範囲はピータ村の中だけだったはずだからな」
「……それは間違いないと思う」
「なら、外部からでは『ピータ村に将来肉体奴隷となるラフィアという名前の少女が居る』という事実は知ることができないはずだ。……知ることができる役職は1つしかない」
「――――騎士、ってこと?」
「そうだ。徴税でピータ村に向かう騎士なら、ラフィアの存在を知ることができる。それに、ゲルフ様、ソフィばあさん、ガーツさんが全員居ないタイミングを選べるのも、徴税を担当する騎士だけだろう」
「で、ピータ村に現れたのは『貴族』だったわけでしょ?」
リュクスは2本の指を立てた。
「この時点で、少なくとも2人が動いてるよね」
僕はただ納得していた。
同時に――状況が不気味な立体感をもって迫ってくるような感覚を味わった。
いったいラフィアの身になにが――――?
「だから、その貴族は、ラフィアちゃんを誘拐するための綿密な計画を立てていた可能性が高いんじゃないかな。書類が偽物だとバレたときの対策もしてると思う」
「対策って……具体的には?」
リュクスはあごに指を添えて、視線を左に流した。考えてるんだなとだれが見ても分かるような完ぺきなポーズ。
そして、リュクスはすぐに電球がともったような表情になった。
「――――うまいこと口車に乗せて本物の誓約書に署名をさせる、とか」
ほぅ、とプロパが息を呑んだ。「それは現実的だし、かなり悪質だぞ。形式が貴族を相手にした誓約書だったら、書かれている文章によっては何でもありになってしまう。――――タカハ!」
ぐっと腕を引っぱられて僕は我に返った。
僕は立ち上がって、今すぐにでも部屋から飛び出そうとしていた。
「落ち着け。今日は無理だ。厩舎が閉まっているから馬を出せない。それに……マルムはどうするつもりだ?」
「…………そう、だね」
僕は自分でこめかみのあたりを強く押さえつけた。
目を閉じて、深呼吸を数回繰り返す。
……大丈夫。落ち着いた。明日の朝になったらマルムと一緒にピータ村に戻って、招集先として書かれていたブリズ村へ向かって状況調査。
あとは臨機応変に体当たりだ。
「ありがとう。2人に相談してよかったよ」
そうでなければ、方針を立てることすらできず途方にくれていただろう。状況に動揺して、闇雲に行動してしまっていたかもしれない。
「では、明日の朝一に出直すぞ」
「そうだね。今日はしっかり眠った方がよさそうだ。じゃ、おやすみ、タカハ」
「ええと……もしかして、2人も来てくれるの?」
立ち上がった2人が同時に、ほとんど同じ角度に首をかしげた。
「他にどういう意味がある?」
「こんな話を聞いて見過ごせないからさ」
それに。
そう言って、リュクスは微笑を凍り付かせた。
「ピータ村は北東域だから――もしかしたら、俺の身内が1枚噛んでるかもしれないしね」
「北東域の今の太守は……ああ。ウェルム様か……」
プロパもまた、苦虫を噛んだような表情になる。
……ん? どういうこと。
「可能性は高いね。まあ、ディードの本家に関係ない小貴族が旅行のついでに悪ふざけをしてるだけかもしれないけど」
「ええと……?」
「明日説明するよ、タカハ。あんまり気持ちのいい話でもないしね」
リュクスはきらりと輝く微苦笑を浮かべた。
「今日はマルムちゃんのそばに居てあげて」




